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ピレネー条約
ピレネーじょうやく
Treaty of the Pyrenees
1659年 11月7日フランスの宰相 J.マザランとスペインの首相ルイス・デ・アロによって締結されたフランスとスペインの和平条約。フランスはフランドル,エノー,リュクサンブールの一部とアルトア,ルーシヨン伯領を獲得し,スペイン王フェリペ4世の長女マリア・テレサ (マリ・テレーズ ) とフランス王ルイ 14世の結婚が取決められた (1660結婚) 。ルイ 14世はマリア・テレサへの 50万エキュの婚資を条件としてスペイン王位継承権の放棄を課せられたが,この和約によってヨーロッパにおける政治的優位はスペインからフランスに移った。
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ピレネー条約(ピレネーじょうやく)
Pirineos[スペイン],Pyrénées[フランス]
1659年にフランスとスペインが結んだ条約。三十年戦争終結後も,両国は戦争状態にあったが,58年の海戦で英仏連合軍が大勝し,これを受けて条約が結ばれた。主な内容は,スペイン王女マリア・テレサが王位継承権を放棄し,50万エスクドの持参金付でルイ14世と結婚することと,ピレネー山脈を「国境線」として散在する両国の領土を「合理的に」まとめることであった。スペインはルシヨンとセルダーニュを失い,フランスの優位が決定的となった。
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「ピレネー条約」の意味・わかりやすい解説
ピレネー条約【ピレネーじょうやく】
1659年フランスとスペインの間に結ばれた平和条約。三十年戦争以来の両国の対決が一応解決。スペイン国王フェリペ4世の王女マリア・テレサとフランス国王ルイ14世との結婚がとりきめられ,ルーション地方,アルトア地方などが正式にフランスに譲渡された。
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ピレネー条約
ピレネーじょうやく
Traité des Pyrénées
1659年11月7日,フランスとスペイン間に結ばれた条約
フランスはアルトワ・フランドルの一部を得,スペイン王妃をルイ14世の妃と決定。のちのスペイン継承戦争の遠因となる。宰相マザランの外交により,ブルボン朝繁栄の基礎がつくられた。
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世界大百科事典(旧版)内のピレネー条約の言及
【カタルニャ】より
… ところが,1620年代にカスティリャの[オリバレス伯公爵]が画一的に半島を統治する政策を打ち出したため,カタルニャでは暴動が勃発した(1640)。このとき,フランスはカタルニャを支援し,オリバレス伯公爵の政策は失敗に帰したが,カスティリャとフランス王国の間で結ばれたピレネー条約(1659)により,ルーシヨン(ピレネー山脈の東端にあったカタルニャ領土)はフランスに奪い取られてしまった。外国の介入を招いたスペイン人同士の戦いは,続く18世紀初頭の[スペイン継承戦争]においても展開された。…
【フェリペ[4世]】より
…しかし[ウェストファリア条約](1648)の結果,オランダは正式に独立を承認され,同じハプスブルク王家を頂くスペイン,オーストリア両国の国際的地位は大幅に低下した。宿敵フランスとは長年にわたって激しい対立抗争を続けてきたが,形勢は日増しに悪化し,オリバレスの失脚後,その後を継いだ新しい寵臣ルイス・デ・アロLuis Menéndez de Haroは,ピレネー条約(1659)によってスペイン,フランス国境周辺のロセリョン,セルダーニャ両地方を失うなど,ルイ14世に屈服した。国内では,オリバレスの強圧的な中央集権化政策に反発して,1640年からカタルニャ,ポルトガルをはじめ,アンダルシア,アラゴン,シチリア,ナポリなどで相次いで反乱が起こった。…
【マザラン】より
…対外的には,48年ウェストファリア条約において三十年戦争を終結させ,アルザスをハプスブルク家から奪うなどして外交手腕を発揮した。また,その後もフランス侵入をやめなかったスペインとの間に,59年ピレネー条約を締結,この条約でフランスはアルトアとルーションを獲得し,ハプスブルク勢力に対する優位を決定づけた。マザランは,剛直なリシュリューと違い,柔軟で巧みな政治的かけひきを身上とし,また,巨額の個人資産を蓄えて不評を買った。…
※「ピレネー条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」