改訂新版 世界大百科事典 「ボーバン」の意味・わかりやすい解説
ボーバン
Sébastien Le Prestre de Vauban
生没年:1633-1707
フランスの軍人,経済学者。フランス中部の寒村で下級貴族の家に生まれたが,父は窮迫して所領を売却しなければならなかったので,ごく貧しい少年時代を送り,軍人になって家門を再興することを志した。おりからフロンドの乱が生じたので,1651年,18歳のボーバンは,コンデ親王の軍に入って国王の軍と戦ったが,コンデ軍が敗れたため捕らえられた。53年にフロンドの乱が鎮定されたとき,宰相マザランは,青年ボーバンの才能を認めて国王の軍に入ることを勧め,これ以後,ボーバンは,ルイ14世のもとで技術将校として軍務に精励することになった。幼時から数学に秀でていた彼は,やがて築城術の大家になり,多年にわたってフランスの各地(とくに東部国境)に城郭を築き,港湾や運河の整備にも努め,また,国王に従ってしばしば外征して戦功をあげ,1703年には元帥の位を授けられた。
しかし,こうしてフランスの各地を築城のために遍歴したボーバンは,ルイ14世治下のフランス国民の貧しい生活に深く心を動かされ,各地域の住民の経済状態を正確に把握するための統計的調査の方法を案出し,《人口調査方法論》(1686),《ベズレー徴税区調査報告書》(1696)などを著し,フランスにおける人口や国富の統計的調査の先駆者になった。そして,このような実態調査に基づいて,1697年から99年にかけて,国民を富裕ならしめるための財政改革案を起草し,これを1707年に《国王十分の一税案》として刊行した。その趣旨は,一国の富は国民の利用しうる財物の豊かさにかかっているのであるから,税制を改革して〈国王十分の一税〉という単一税(収穫の10分の1を国王に収める)を設定すべきであるというものであり,この構想は,経済学説史上,重商主義から重農主義への橋渡しになったと考えられている。しかし,この《国王十分の一税案》は,鋭い現状批判を含むものであったため,政府によって禁書とされ,老いたるボーバンは同年に憂憤のうちに死去した。彼がこのように多方面の活躍をしたのは,その真正の愛国心によるのであり,今日,偉大な軍人としてだけでなく,統計調査法の元祖,経済学の創始者の一人,そしてフランスの愛国者の筆頭と評価されている。
執筆者:遅塚 忠躬
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報