フランスの宰相、枢機卿(すうききょう)。イタリア中部のペシナに生まれる。父はシチリア系イタリア人で教皇庁官吏。ローマのイエズス会の学院卒業後、スペインのアルカラ大学に学び視野を広げた。1623年教皇軍の隊長に任命されたが、柔軟な頭脳の持ち主で、しかも社交的で雄弁という素質をもっていたので、旧教世界内の協調に腐心していた教皇に認められ、外交官に起用された。1630年のパリ行、1634年の教皇特使としてのパリ赴任とその活動を通じて、リシュリューに外交手腕を認められ、1639年にパリに渡り、同年フランスに帰化した。1641年末、枢機卿となった。ルイ13世の死後、摂政(せっしょう)母后アンヌ・ドートリッシュの信頼を得て、1643年宰相となり、多くの外交問題の解決に手腕を振るったが、とくに三十年戦争の有利な終結に意欲を燃やし、1648年10月、ウェストファリア条約の締結に成功した。
しかし、マザランに対する旧貴族や高等法院官僚たちの反感も強く、1643年にはマザラン失脚を図る「要人の陰謀」cabale des Importants事件が起こった。また、三十年戦争の戦費調達のため各種の租税が増徴され、その不満がマザランに集中した。ほぼ全国に及んだフロンドの乱(1648~1653)はこのマザランに対する反感を契機としている。とくに高等法院とコンデ親王を中心とする旧貴族の反マザラン感情が強く、「マザリナード」とよばれるマザラン批判の風刺文書や詩歌が流布された。乱の間、マザランは各地を転々として、1653年2月にパリに帰った。摂政母后と親密な関係にあったといわれるマザランは、フロンドの乱後の実権を握り、腹心フーケ、コルベール、ル・テリエを用いて、リシュリュー以来の集権的行政支配機構の整備と財政確立に努めた。対外的には、イギリス共和政府と結び、スペイン軍を撃破して、1659年ピレネー条約を結び、ハプスブルク王家に対するブルボン王家の優位を決定づけ、ルイ14世とスペイン王女との政略結婚を成功させた。また、西ドイツ諸邦間のライン同盟(1658)、バルト海の平和を保障するオリバー条約(1660)を結ばせるなど、外交的力量を十分に発揮してフランス優位の国際秩序をつくりあげた。マザランは、多数の美術品、宝石類、家具類、図書を含む莫大(ばくだい)な遺産を残したが、現在パリにあるマザリーヌ図書館はマザランの私蔵本を基にしてつくられたものである。1661年3月9日バンセンヌで死去。
[千葉治男]
フランスの政治家。イタリア生れで,イタリア名はジュリオ・G.マザリーニGiulio G.Mazarini。初め軍人としてローマ教皇に仕えていたが,やがて外交官となる。教皇特使としてフランスに滞在中リシュリューに認められ,1639年フランスに帰化,その協力者となった。41年枢機卿となり,42年リシュリューが死去し,翌年ルイ13世も後を追うと,親密な関係にあった母后摂政アンヌ・ドートリッシュの協力を得て宰相となり,幼い国王ルイ14世のもとで政治の実権を握った。しかし,マザランは当初から困難に直面した。オルレアン公ガストンやコンデ親王ルイ2世(大コンデ)を中心に,リシュリューの在世中は抑えられていた貴族たちが不穏な動きを再開した。また,三十年戦争の継続の結果,危機に陥っていた財政を支えるためさまざまな形で租税の増徴をはからねばならず,そのことが民衆の不満を買った。王権に対するこうした反発が48年にフロンドの乱となって爆発すると,マザランは一時ドイツに亡命を余儀なくされるほどの苦境に陥った。しかし,彼は高等法院や大貴族といった特権階層と巧みに妥協することで内乱の平定に成功した。以後,乱の間に一時廃止されていた国王直轄の地方長官を全国に常駐させる体制を整えるなどして,以前よりもかえって王権の基盤を確かなものにした。対外的には,48年ウェストファリア条約において三十年戦争を終結させ,アルザスをハプスブルク家から奪うなどして外交手腕を発揮した。また,その後もフランス侵入をやめなかったスペインとの間に,59年ピレネー条約を締結,この条約でフランスはアルトアとルーションを獲得し,ハプスブルク勢力に対する優位を決定づけた。マザランは,剛直なリシュリューと違い,柔軟で巧みな政治的かけひきを身上とし,また,巨額の個人資産を蓄えて不評を買った。しかし,基本的には内政・外交両面でリシュリューの政策を継承し,きたるべきルイ14世親政の基礎を固めたといえる。
→マザリナード
執筆者:林田 伸一
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1602~61
イタリア生まれのフランスの政治家。教皇庁の外交官をへて,1636年頃からフランス宮廷に仕え,フランスに帰化。リシュリューは彼の才能を買い,枢機卿に任じ,さらにルイ13世の死後,摂政后アンヌ・ドートリシュにより首席顧問官に登用された。三十年戦争の終結に際して優れた外交的手腕をみせたが,国内的には,増税と彼個人に対する反感がフロンドの乱の重要な要因となった。しかし,2度の亡命後,巧みにフロンド派の内部対立を利用し,これを挫折させ,53年権力の座に戻った。以後は実質的に全権を掌握,国内では封建諸侯の地方分権的勢力を抑え中央集権を再建,対外的にはピレネー条約などによりフランスの地位強化を図った。
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…ロアイヤル広場の周辺にも,こうした富裕層が住みつくようになり,この広場やパレ・ロアイヤル界隈(かいわい)のにぎわいは,パリの伝統的手工業が生み出す奢侈品に販路を開くことになった。 5歳で即位したルイ14世の下で,リシュリューの後をうけて宰相となったマザランは,三十年戦争の戦費負担の問題で1648年にパリ高等法院を中心とする法官の反抗に遭い,次いでパリ民衆も重税に反対して反乱を起こした。このフロンドの乱でルイ14世は一時パリを離れたが,翌年パリで妥協が成立した。…
…1648年から53年にかけて,パリを中心にほぼ全国的に展開された。17世紀前半,枢機卿リシュリューが進めていた近代的行政国家組織創出の政策はマザランに受け継がれたが,それは長期化する三十年戦争のさなかに進行したため,高等法院を中心拠点とする旧官僚(官職保有者)や伝統的な旧貴族(剣の貴族),そして中央に対する地方勢力と,さらに生存の危機に直面した民衆にいたるまでの社会各層,諸団体の反発を招いた。反発はおのおのの伝統的特権と慣行を維持するための対応であり,それが一挙に表面化したのがフロンドの乱であった。…
…フロンドの乱(1648‐53)の間に宣伝の目的で,フランスで刊行された膨大な数のパンフレットやビラの総称。未成年の国王ルイ14世の下で政治の実権を握っていたイタリア出身の枢機卿J.マザランを批判・誹謗する反マザラン文書が中心であったところから,〈マザリナード〉(マザランもの)の名が生まれたが,王母アンヌ・ドートリッシュやコンデ親王などを中傷したものも多数含まれている。形式としては,正面からの告発文書と並んで,戯れ歌,落首,歌謡,戯曲など多様で,無署名のものが多いが,知られている筆者としては,スカロン,ギー・パタン,ギー・ジョリー,パトリュらが,反マザランの論陣を張っている。…
※「マザラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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