マレンコフ(読み)まれんこふ(その他表記)Георгий Максимилианович Маленков/Georgiy Maksimilianovich Malenkov

デジタル大辞泉 「マレンコフ」の意味・読み・例文・類語

マレンコフ(Georgiy Maksimilianovich Malenkov)

[1902~1988]ソ連政治家。1953年スターリン死後首相・党書記長となり、55年辞任フルシチョフ追放を策して57年失脚

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「マレンコフ」の意味・わかりやすい解説

マレンコフ
まれんこふ
Георгий Максимилианович Маленков/Georgiy Maksimilianovich Malenkov
(1902―1988)

ソ連の政治家。1月8日にロシアのオレンブルグの勤労者の家庭に生まれ、1920年に共産党に入る。1925年にモスクワ高等技術学校卒業後、党中央委員会に勤務。党モスクワ委員会での仕事を経て1934年に党中央委指導党機関部長となる。1939年に党中央委員に選出され、書記兼組織局員兼人事部長となる。1941年2月には政治局員候補となり、同年6月の独ソ戦勃発(ぼっぱつ)後は国家防衛委員会委員として活躍。戦後、1946年に政治局員に昇進し、党中央委書記とソ連閣僚会議副議長(副首相)をも兼ねる。1952年10月の第19回党大会では中央委員会の活動報告を行い、1953年3月5日のスターリンの死の翌日に筆頭書記兼首相となる。しかし、同月14日には筆頭書記の地位を失い、1955年には首相も辞任。一時、副首相兼発電所相を務めたが、1957年6月にフルシチョフ党第一書記の追放を策して失敗し、逆に反党分子として批判され失脚。カザフスタンの水力発電所長を務めたあと、1968年に引退し、モスクワで年金生活を送った。

中西 治]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マレンコフ」の意味・わかりやすい解説

マレンコフ
Malenkov, Georgi Maksimilianovich

[生]1902.1.8. オレンブルク
[没]1988.1. モスクワ
ソ連の政治家。革命後志願して赤軍に入隊,1920年共産党に加入。 21~25年モスクワ高等工業学校に学び,卒業と同時に党中央委員会付きのポストに任命された。のち I.スターリン個人の秘書局員となり,32年その責任者となった。 34年全ソ連邦共産党組織部長となり,1930年代の粛清に重要な役割を演じた。 39年第 18回党大会で中央委員会,組織局,書記局メンバーに選ばれ,党幹部要員管理局長に就任。 41年2月政治局員候補,同6月ドイツ軍によるソ連侵攻後,国家防衛委員会委員。 43年8月連邦人民委員会議付属のドイツ軍占領解放地区経済復興委員会議長に就任,戦災地の復興に尽力。 46年3月政治局員,党中央委員会第二書記,第一副首相。 53年3月スターリンの死に伴い首相,第一書記となったが,まもなく第一書記を N.フルシチョフに譲り,経済計画に関する意見の対立から 55年2月首相を辞任し,N. A.ブルガーニン首相のもとで発電所相をつとめた。 57年6月 V. M.モロトフ,L. M.カガノビッチらとともに「反党グループ」の一員として,発電所相,党中央委員,政治局員などすべて解任された。その後 63年までウスチカメノゴルスク水力発電所長。 64年引退,党籍剥奪が判明した。

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改訂新版 世界大百科事典 「マレンコフ」の意味・わかりやすい解説

マレンコフ
Georgii Maksimilianovich Malenkov
生没年:1902-88

ソ連邦の政治家,元首相。1920年に共産党に入党,党官僚として,とくに20年代後半はスターリンの秘書役を務める。30年代にはモスクワ党委員会で働き,34年からは中央委員会で党官僚機構の責任者として人事,幹部政策を行う。その間エジョフらの大粛清にも荷担し,39年に党書記,41年に政治局員候補に昇進,とくに党組織の指導にあたる。第2次大戦後政治局員,52年の第19回党大会ではスターリンに代わって中央委員会報告を行い,ベリヤとともに有力な後継者となり,スターリン死後の53年首相となる。しかしフルシチョフとの農政上の対立や49年に多数の党活動家が逮捕・処刑されたレニングラード事件への関与のために,55年2月に首相職を離れる。その後フルシチョフに退陣をせまる反党グループ事件に荷担し,党中央委員会幹部会員の地位を追われた。
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百科事典マイペディア 「マレンコフ」の意味・わかりやすい解説

マレンコフ

ソ連の政治家。赤軍政治委員,ソ連共産党中央組織要職を歴任。1939年党中央委員,書記,人事局長,第2次大戦中は国家防衛委員会委員。1946年党政治局員,1947年副首相となり,スターリンの後継者と目された。1953年スターリンの死で首相となり,国際協調・党内集団指導制・消費物資増産など新政策を推進したが1955年辞職。1957年反党グループと目されて失脚。
→関連項目ブルガーニンフルシチョフベリヤポドゴルヌイ

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マレンコフ」の解説

マレンコフ
Georgii Maksimil'ianovich Malenkov

1902~88

ソ連の政治家。1920年代の半ばより,党中央委員会の機構で重要な役割を演じ,39年に党中央委員会書記・人事局長に任命される。独ソ戦とともに,国家防衛委員会のメンバーとなり,53年スターリン死後首相となる。57年失脚。

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旺文社世界史事典 三訂版 「マレンコフ」の解説

マレンコフ
Georgii Maksimilianovich Malenkov

1902〜88
旧ソ連の政治家
1939年ソ連共産党中央委員。第二次世界大戦後の1946年政治局員,ついで副首相となり,さらに53年スターリンの死とともに首相となった。1955年“スターリン批判”をめぐってフルシチョフ派と対立・失脚し,57年6月反党グループとして,モロトフらとともに追放された。

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世界大百科事典(旧版)内のマレンコフの言及

【ソビエト連邦】より

…独裁者の死はソ連史に大きな変化を呼び起こすこととなった。ユダヤ人医師団事件はでっちあげであったと発表されたあと,今度はそれを明らかにしたスターリンの内相ベリヤが打倒され,次いでスターリンの指名した後継者マレンコフ首相が失脚した。党の実権を握ったのは,内戦時に入党した出稼ぎ農民の子フルシチョフであった。…

※「マレンコフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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