ソ連の政治家。1月8日にロシアのオレンブルグの勤労者の家庭に生まれ、1920年に共産党に入る。1925年にモスクワ高等技術学校卒業後、党中央委員会に勤務。党モスクワ委員会での仕事を経て1934年に党中央委指導党機関部長となる。1939年に党中央委員に選出され、書記兼組織局員兼人事部長となる。1941年2月には政治局員候補となり、同年6月の独ソ戦勃発(ぼっぱつ)後は国家防衛委員会委員として活躍。戦後、1946年に政治局員に昇進し、党中央委書記とソ連閣僚会議副議長(副首相)をも兼ねる。1952年10月の第19回党大会では中央委員会の活動報告を行い、1953年3月5日のスターリンの死の翌日に筆頭書記兼首相となる。しかし、同月14日には筆頭書記の地位を失い、1955年には首相も辞任。一時、副首相兼発電所相を務めたが、1957年6月にフルシチョフ党第一書記の追放を策して失敗し、逆に反党分子として批判され失脚。カザフスタンの水力発電所長を務めたあと、1968年に引退し、モスクワで年金生活を送った。
[中西 治]
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ソ連邦の政治家,元首相。1920年に共産党に入党,党官僚として,とくに20年代後半はスターリンの秘書役を務める。30年代にはモスクワ党委員会で働き,34年からは中央委員会で党官僚機構の責任者として人事,幹部政策を行う。その間エジョフらの大粛清にも荷担し,39年に党書記,41年に政治局員候補に昇進,とくに党組織の指導にあたる。第2次大戦後政治局員,52年の第19回党大会ではスターリンに代わって中央委員会報告を行い,ベリヤとともに有力な後継者となり,スターリン死後の53年首相となる。しかしフルシチョフとの農政上の対立や49年に多数の党活動家が逮捕・処刑されたレニングラード事件への関与のために,55年2月に首相職を離れる。その後フルシチョフに退陣をせまる反党グループ事件に荷担し,党中央委員会幹部会員の地位を追われた。
執筆者:下斗米 伸夫
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1902~88
ソ連の政治家。1920年代の半ばより,党中央委員会の機構で重要な役割を演じ,39年に党中央委員会書記・人事局長に任命される。独ソ戦とともに,国家防衛委員会のメンバーとなり,53年スターリン死後首相となる。57年失脚。
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…独裁者の死はソ連史に大きな変化を呼び起こすこととなった。ユダヤ人医師団事件はでっちあげであったと発表されたあと,今度はそれを明らかにしたスターリンの内相ベリヤが打倒され,次いでスターリンの指名した後継者マレンコフ首相が失脚した。党の実権を握ったのは,内戦時に入党した出稼ぎ農民の子フルシチョフであった。…
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