社会学者。オーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで、ユダヤ系ハンガリー人を父とし、ドイツ人を母として生まれる。ブダペスト大学哲学科を卒業したのち、1912年から1913年にかけてドイツに留学し、フライブルク、ハイデルベルク、ベルリンの各大学に学び、とくにベルリン大学の私講師であったジンメルから強い影響を受けた。第一次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)とともにハンガリーに帰国し、ルカーチやバラージュなどとともにハンガリー革命の運動の一翼を担う。その渦中の1918年、『認識論の構造分析』によってブダペスト大学から学位を得る。ホルティたちの反革命の成功のため、1920年にドイツに亡命し、ハイデルベルク大学に身を寄せる。1925年に同大学講師となり、1929年『イデオロギーとユートピア』の刊行直後にフランクフルト大学の社会学教授となる。しかし、ヒトラー政権の成立(1933)とともにイギリスへの亡命を余儀なくされ、その後、死に至るまでロンドン大学で社会学、教育社会学を講じ、第二次世界大戦後にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の活動にも協力した。
マンハイムは、第一に、知識社会学の確立者として位置づけられる。『イデオロギーとユートピア』は知識社会学の視座を代表する古典的著作の一つとなっており、そこで提起された存在被拘束性Seinsverbundenheit(ドイツ語)の概念は、今日では知識社会学のキーワードとなっている。第二に、『変革期における人間と社会』(1935)にみられるように、自らがユダヤ系のマージナル・マン(境界人、周辺人)であり、数次の亡命を体験した立場からの現代社会分析が重要である。この視点は、さらに「時代の診断学」としての現代学Gegenwartskunde(ドイツ語)としてまとめられていった。第三に、政治社会学の視点からの大衆社会mass society分析の出発点を提起したといってよい。リースマン、フロム、ミルズなどの大衆社会論は、多かれ少なかれマンハイムからの影響を受けている。第四に、とくに晩年の教育社会学の分野での活動は、ユネスコのヨーロッパ支部長としての実践とともに、ファシズムを再生させない「自由のための計画化」の具体的な方途を探る努力として、今日に至るまで大きな影響を及ぼしている。
[田中義久]
『福武直訳『変革期における人間と社会』上下(1953・みすず書房)』▽『K・マンハイム著、谷田部文吉・池田秀男訳『体系社会学』(1963・誠信書房)』▽『鈴木二郎訳『イデオロギーとユートピア』(1968・未来社)』▽『高橋徹・徳永恂訳『イデオロギーとユートピア』(『世界の名著56』所収・1971・中央公論社/2006・中公クラシックス)』
ドイツ南西部、バーデン・ウュルテンベルク州の都市。人口30万6700(2000)。ライン川の右岸、ネッカー川との合流点に位置する。対岸はラインラント・プファルツ州のルートウィヒスハーフェン。1834年に河港の整備が始まり、以後ライン、ネッカーの水運とライン川両岸を走る鉄道との結節点として工業立地が盛んになり、北西部に工業地域ができた。機械、車両、精密・光学機器、電気機器のほか、ライン川の新旧流路間にあるフリーゼンハイム島には石油精製工場があり、対岸のルートウィヒスハーフェンの化学工場に原料を供給している。また、市域の北東部には、沖積地に残る広大な森林に接して住宅地区があり、東部、南部にはライン河畔のシュロスガルテン公園をはじめ緑地が多い。
[朝野洋一]
石器時代に集落があったことが知られるが、この都市の名が史料に初出するのは766年のことで、中世にはライン川とネッカー川を利用する輸送品に対する関税徴収所が置かれ、1607年に都市法が与えられた。1720~78年の間プファルツ選帝侯の居城地となり、半円と直線の街路で碁盤目状に136にくぎられた市街地が建設され、水準の高い文化的中心地でもあった。1803年プファルツの解体とともにバーデン領に編入された。
[中村賢二郎]
ドイツ南西部,バーデン・ビュルテンベルク州第2の大都市。人口30万7499(2004)。ライン,ネッカー両河川の合流点にあり,南ドイツ最大の河港をもち,対岸のルートウィヒスハーフェンと双子都市として,ライン中流有数の工業地帯の中心地。地名は,漁村Mannenheimに由来し,766年初めて文書史料に現れる。1606年ファルツ選帝侯フリードリヒ4世が,オランダ式星形城塞と碁盤目街区からなる都市を建設,翌年都市法を付与した。カルバン派君侯の下で,ベルギーおよびオランダ系プロテスタントが多数移住し,都市の繁栄を築いた。三十年戦争,ファルツ戦争で大きな被害をうけたが,1720年ハイデルベルクにかわるファルツ侯の宮廷所在地となり,バロック文化が開花した(マンハイム楽派など)。1802年バーデン大公国に併合,48年フランスの二月革命に呼応して,ドイツ最初の革命運動が起こり,その伝統は,今日にまで続く。
執筆者:小倉 欣一
ハンガリー生れの社会学者。ブダペストに生まれ,ブダペスト大学を卒業。ルカーチらと同じくブダペストの革新的知識人の一人であったが,反革命後亡命してハイデルベルク大学をはじめ,ドイツ語圏で活躍,1930年にはフランクフルト大学の教授となる。しかしナチスの台頭でロンドン大学に移り,その地で客死した。ハイデルベルクの知的雰囲気の中で,はじめ認識論的関心から出発したが,やがて新カント派にあきたらず〈歴史主義〉的立場に立って独自の途をひらき,《イデオロギーとユートピア》(1929)によって脚光を浴びる。〈存在被拘束性〉という観点からするイデオロギー批判の方法は,各方面に多くの影響を与え,知識社会学の礎石となる。イギリス亡命後は民主主義と大衆社会の現状を踏まえ,〈自由のための計画〉を目ざす〈時代診断〉や,各種の著作に携わるとともに,ルートレッジ社の編集顧問やユネスコのヨーロッパ部長として活躍した。
執筆者:徳永 恂
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1893~1947
ブダペスト生まれのドイツの社会学者。認識の存在被拘束性を解明し知識社会学を確立した。ナチス政権成立後イギリスに亡命し,第二次世界大戦後はユネスコで社会の再建に努力した。主著『イデオロギーとユートピア』など。
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…上部構造(2)イデオロギー論はその後,マルクス主義陣営以外では,第1次大戦後のドイツで〈知識社会学〉という社会学の一特殊分野を生み出すことになった。その体系家K.マンハイムはイデオロギーとユートピアとを対比し,両者ともに現実の社会には適合しない〈存在超越的〉な観念であるとしながらも,ユートピアが〈存在がいまだそれに達していない意識〉,つまり既存の社会をのりこえる革命的機能をもつ意識であるのに対し,イデオロギーは〈存在によってのりこえられた意識〉,つまり変化した新しい現実をとりこむことのできない,時代にとり残された意識,と規定した。さらにまたマンハイムは,マルクス主義が観念や意識の存在拘束性を発見した功績を評価しながらも,それが敵対的階級のイデオロギーの存在拘束性を暴露することにのみ終始し,自己自身の観念体系をも存在に拘束されたものとしてみる自己相対化の視点を欠いているとして批判し,自己自身の立場にも存在拘束性を認める勇気をもつとき,単なるイデオロギー論は一党派の思想的武器であることをやめ,党派を超越した一般的な社会史や思想史の研究法としての知識社会学に変化する,と主張した。…
…さらに〈存在するもの〉と〈存在すべきもの〉との原理的区別を欠く歴史法則的な決定論も社会計画的思考になじまない。こうした見方は,かつて〈自由のための計画〉(《自由・権力・民主的計画》,1951)を説いたK.マンハイムのものでもある。しかし他方,ユートピア的要素を欠き,人間の自由な選択意思を否定し,さらに現実世界の経験的規則性を無視したのでは社会計画の成立する余地はなくなる。…
…またルカーチはハンガリー革命に参加して挫折を経験したのち,資本主義社会の物象化を解明し,労働者の階級意識の形成という問題を提起した。 他方,資本主義社会における合理化と官僚制の問題を徹底的に解明したM.ウェーバーの仕事を受けつぎ,マンハイムは,産業社会の合理化が進むとともに,大衆社会に非合理性や激情的衝動があらわれるとし,大衆社会の問題を提起した。〈フランクフルト学派〉の第二世代といえるハーバーマスは,現代社会が〈組織された資本主義〉〈国家的に規制されている資本主義〉に変質しているとし,管理社会の問題を提起している。…
…しかし,支配階級による宣伝や教育のために,被支配階級が虚偽意識にとらわれることが問題だとマルクス主義は分析する。K.マンハイムは,こういうマルクス的なイデオロギー概念を拡張して,政治意識を所属集団や階層あるいは職業などの生活的利害によって一般に拘束されたものとして,知識社会学的分析の手法をひらいた。 これに対し,M.ウェーバーは,政治意識を,むしろそれぞれの歴史社会に固有なエートス(社会倫理)によって規定されたものとしてとらえ,それを民族的な文化伝統やエートスの歴史的発展に即して解釈する方向を築いた。…
…かりに抵抗を志した少数者がいても,まったくばらばらの孤立状態だったから抵抗できないし,それを敢えて抵抗に踏み切ったら各個撃破されるだけだった。 社会学者マンハイムは,《変革期における人間と社会》(1935)で,そういう大衆社会状況をいちはやく診断し,その治療の方向づけをしようと試みた。なぜ大衆社会が出現したのか? マンハイムによると,ある社会は,政治の領域であれ文化の領域であれ,優れたエリート層が公衆に媒介されて大衆に影響力を及ぼしているとき,安定し,発展もする。…
…フランスよりもさらに資本主義の発達が遅れていた19世紀前半のドイツには,バークをバーク以上に封建的イデオロギーとして継承したK.L.vonハラー,A.ミュラー,F.J.シュタールなどがいた。彼らを対象にしてK.マンハイムが,《保守主義》(1927)の中でその特質を論じたのは,保守主義論の古典として有名である。しかし,ドイツで保守主義という言葉が盛んに用いられるようになるのは,実際はもっと遅れて1860年代以降,ビスマルクの指導の下に大地主(ユンカー)たちが資本家に転じていったころ,彼らのイデオロギーとしてであった。…
※「マンハイム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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