マーチソン(読み)まーちそん(英語表記)Sir Roderick Impey Murchison

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マーチソン」の意味・わかりやすい解説

マーチソン
まーちそん
Sir Roderick Impey Murchison
(1792―1871)

イギリスの地質学者。スコットランドのロスシャー(現、ロス・アンド・クロマーティ)に生まれる。若くして軍務に服し、ワーテルローの戦いのあと辞めてロンドンに出た。著名な化学者デービーに勧められて、自然科学の研究を始め、1825年ロンドン地質学会員となり地質調査所に入った。1831年より当時親友であったセジュウィックとともにウェールズの古期古生界の研究を始め、1839年には連名デボン系を提唱した。それより先マーチソンは単独でシルル系を提唱し、1841年にはウラルを研究旅行して二畳系(ペルム系)を提唱した。シルルデボン、二畳系の命名者となり国際標準層序の提唱によって、古期古生界の確立に大きな功績を残した。のちにカンブリア系の地層についての論争で、セジュウィックと激しく対立した。

[木村敏雄]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「マーチソン」の意味・わかりやすい解説

マーチソン
Roderick Impey Murchison
生没年:1792-1871

イギリスの地質学者,地理学者。スコットランドの古い地主の家に生まれ,陸軍士官学校を経て一時従軍したが,ワーテルローの戦の後退役。ローヤル・インスティチューション教授H.デービーと知り合って自然科学に関心をもつ。1824年からロンドンに住み,25年ロンドン地質学会に入会,地質学研究に専念するようになる。35年に旧赤色砂岩層の下の化石の多い地層をシルル系と命名,また39年,A.セジウィックと共同でシルル系と石炭系の間の旧赤色砂岩にあたる地層に化石が含まれることから,これをデボン系と命名した。その後,セジウィックの設定したカンブリア系とシルル系の有効性をめぐって2人は死ぬまで論争した。この論争は2人の死後,ラプワースCharles Lapworth(1842-1920)によってシルル系とカンブリア系の間にオルドビス系を設定することによって解決された(1879)。41年には石炭系より上の古生界を求めてウラル山脈を調査し,ペルム系(二畳系ともいう)を設定した。1831年以後,ロンドン地質学会の会長に3回選ばれたほか,55年から地質調査所長となった。地理学者としても有名で,王立地理学協会の会長も務め,D.リビングストンのアフリカ探検などを援助した。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マーチソン」の意味・わかりやすい解説

マーチソン
Murchison, Sir Roderick Impey

[生]1792.2.19. スコットランド,タラダーレ
[没]1871.10.22. ロンドン
イギリスの地質学者。 15歳で軍隊志願,ナポレオン戦争終結まで軍務についた。その後ロンドンに出て地質学協会に入会 (1825) ,C.ライエルや A.セジウィックと,ヨーロッパ各地を地質調査をして回った。ウェールズ南部の地質を研究し,化石からシルル系を提唱 (35) 。のちセジウィックとともにデボン系を設定 (36) 。ウラル山地の調査では古生層最上位層をペルム系と命名した。地質学協会会長 (31) ,のち地質調査所所長,王立鉱山学校校長,ロンドン応用地質学博物館館長 (55) 。 1871年にエディンバラ大学に地質学,鉱物学の教授職を設け,地質学協会にマーチソン・メダルを設けるなど,地質学の普及,向上にも尽力した。 46年ナイトの称号を授与された。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android