イギリスの化学者。コーンウォール県ペンザンスに木彫師の子として生まれる。5人の兄弟姉妹のなかの長子であった。弟のジョンJohn Davy(1790―1868)は医師となり、若干の化学上の発見で知られるようになった。
1794年に父親が死んだために、ハンフリー・デービーは医師のもとへ修業にやらされた。この時期に彼は、のちに有名になった、摩擦の熱だけによって氷を融解させる実験を行った。彼はこの実験から、当時の一般の見解に反して、熱を特殊な物質とみることはできないということを結論した。
やがて彼は、ベドーズThomas Beddoes(1760―1808)がブリストルに建てた「気体研究所」に助手として勤めるようになった。この研究所は、プリーストリーをはじめとする化学者たちによって当時発見された種々の気体の、治療への応用を研究することを目的としたものであった。ここでのデービーの仕事としては、亜酸化窒素(一酸化二窒素)の生理作用についての発見がある。
1801年にデービーは、ロンドンに当時創設されたロイヤル・インスティチューションの助教授に任命された。この研究所は自然科学の保護育成を目的とし、ランフォード伯爵が中心となり創設されたものであった。デービーは1年足らずのうちにロイヤル・インスティチューションの教授に昇進した。この職にあった間に、彼は農業における化学の応用に興味をもち、また、皮なめしにオークの樹皮を用いるのにかえて阿仙薬(あせんやく)(インド産のマメ科植物から製した、褐色または暗褐色塊状の薬剤。主成分はカテキン)を用いるようにし、この方法を普及させた。これらの実際的関心を示す仕事に加えてロイヤル・インスティチューション教授時代の彼の重要な仕事として、ボルタが発明した電堆(でんたい)の化学的作用に関する研究がある。なかでも電解によってアルカリ金属を初めて単離した仕事は、とりわけ重要な意義をもつものである。これらの研究の内容を、彼は1806年またその翌1807年、ロイヤル・ソサイエティーのベーカー講義において述べた。さらに1808年には、シェーレが最初に得た塩素が元素であることを明らかにし、塩酸が塩素のほかに水素しか含んでいないことから酸の水素説を提唱した。
1812年に彼は爵位を与えられ、「卿(きょう)」の称号を得た。この年に結婚し、また、ロイヤル・インスティチューションの教授職を辞したが、ロイヤル・インスティチューションの実験室における仕事はこのあとも続けた。ファラデーがデービーの実験室の助手となったのは、1813年である。
1815年までの大陸旅行の途次、デービーはパリでヨウ素に関する研究に従事した。彼は当時みいだされたこの新しい物質を塩素と類似の新元素とみなした。しかし、この新元素に関する化学的研究を、当時として完全に成し遂げたのはゲイ・リュサックであった。
ロンドンに帰るとすぐにデービーは別の方面の研究を依頼された。それは炭坑での爆発を防ぐための研究であった。彼は炎の性質について詳しく調べ、それについて明らかにしたことに基づいて、安全灯をつくった。彼の発明した安全灯は実際に採用されてたいへん役だった。
1820年に彼はロイヤル・ソサイエティー会長に就任した。しかし、彼の健康はすでにひどく衰えてきていて、脳卒中の発作をおこしたあと、転地療養中の1829年、ジュネーブで50歳で没した。
デービーの科学的業績のなかでとくに重要で注目すべきものは、1807~1808年にかけての彼の電気化学に関する業績である。当時、両極の間に水しか存在しない場合に、両極にそれぞれ酸とアルカリが出現する現象を説明することができなかった。彼はこの現象が不純物によっておこることを示した。水素で空気をまったく追い出してつくった真空の中で金製の容器を使って実験することによって、そのことをはっきり示した。また、彼は、のちにイオン概念によって説明されるようになる溶液内の物質移動過程を、きわめて多くの巧妙な実験を行って初めて組織的に明らかにした。
次に、デービーは、金属酸化物と似ている性質をもっている点で注目されてはいたが、これまで金属を単離することはできていなかったアルカリ(アルカリ金属、アルカリ土類金属の水酸化物)を、強力な電堆による作用を利用して分解することに成功した。カ性カリの表面だけを水にぬらして電流を通じたところ、純粋カリウムの小球を得た。このものは爆発してただちに燃えた。彼が電解によって初めて単離した元素は、カリウム(1807)のほか、ナトリウム(同)、カルシウム(1808)、バリウム(同)、ストロンチウム(同)、マグネシウム(同)である。
[山口宙平 2018年9月19日]
イギリスの詩人、批評家。イギリス北部の炭坑地帯バーンズリーに生まれる。ケンブリッジ大学を卒業後、イギリス国内のさまざまな大学で教鞭(きょうべん)をとったのち、1978年以後アメリカ、バンダービルト大学教授。1950年代のいわゆる「ムーブメント」派とよばれる均整のとれた知的で平明な詩風をもつ詩人の代表的人物であり、現代イギリスでもっとも発言力ある批評家。詩集に『理性の花嫁』(1953)、『冬の才能』(1957)、『全詩集1950―1970』(1972)、『全詩集1971―1983』(1984)、集大成としての『全詩集』(1990)があるほか、T・S・エリオットらの20年代モダニスト詩人たちと、D・トマスら40年代の新ロマン主義の詩人たちの詩風を否定しようとする挑戦的意図をもつ『英詩の語法の純化』(1952)、『明晰(めいせき)なエネルギー』(1955)などの批評作品がある。しかし、生涯を通じてパウンドに注目してきたが、それにはかなりの変貌(へんぼう)がみられ、『エズラ・パウンド、彫刻家としての詩人』(1964)、『エズラ・パウンド』(1972)を経たのち、『エズラ・パウンド研究』(1991)にまとめられており、注目すべき批評論として『トマス・ハーディとイギリス詩』(1972)がある。またほかに、自叙伝『これらわが友』(1982)もある。95年9月18日没。
[出淵 博]
イギリスの化学者。木彫師の長男としてコーンウォールに生まれる。1795年から薬剤師兼外科医のもとで年季奉公をしたのち,98年からベドーズの気体研究所に採用され,そこで気体の化学的・生理学的研究に従事し,亜酸化窒素(笑気)の麻酔性を発見した。彼はこの研究により化学者としての名声を得て,当時ロンドンに新設されたローヤル・インスティチューションの講演助手に任命され,1802-12年同所の化学教授となる。1806年からのボルタの電池を用いての電気化学の実験によりアルカリ金属・アルカリ土類金属の単離に成功し,ナポレオン賞の最初の受賞者となった。さらにこの実験等をとおして化学結合の根源が電気的極性に基づくことを明らかにし,物質の構成に関するベルセリウスの二元説への道を開く等,電気化学の基礎を築いた。また10年には塩素の元素性を確認し,この過程での塩素化合物の研究等をとおして,ラボアジエの酸素中心の酸理論を修正して,水素中心の酸理論構築への糸口をつくった。この酸の酸素説の否認,ラボアジエのカロリック理論を否定し,熱を粒子の運動に帰着させたこと,すべての発熱反応が酸化であるという見解の打破等によって,彼はラボアジエによる化学革命をより完全なものとした。なおドルトンの原子説には終始懐疑的であった。彼は化学の実用目的の研究も行った。1802-12年には農業改良会Board of Agricultureに招かれ,農芸化学の講義を行い農業に化学を適用した。この講義内容をまとめて13年《農芸化学原論》として出版した。これはリービヒ以前のこの分野における代表的な著作の一つである。安全灯の考案による鉱山業への貢献,さらに船底の防食の研究等もある。なお地質学にも興味をもち,火山についての論文も書いた。20-27年ローヤル・ソサエティ会長。彼の文化人としての交流は有名で,その資質は詩人コールリジらからも高く評価されている。趣味は釣りと詩作。
執筆者:斎藤 茂樹
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…19世紀に入ってボルタ電池が化学者によって利用されるようになった。水が電気分解されるのをみて,H.デービーは電流によって強く化合している2物質を切り離す可能性に思い至った。ローヤル・インスティチューションにつくられた極板250枚以上の強力な電池の力を借りて,デービーは融解塩からカリウム,ナトリウムなどの単離に成功した(1807)。…
…河川水や海水にもつねに含まれ(海水では400mg/l),また生物体にとっても重要な成分の一つとなっている重要な元素である。カルシウムの単体をはじめて純粋に取り出したのはH.デービーである(1808)。彼は,酸化カルシウムと酸化水銀の混合物を水で湿したものを電解してまずカルシウムのアマルガムを得,これから水銀を蒸留によって取り除くと,銀白色の金属元素が残ることを観察した。…
…
[ベルセリウスの命名]
スウェーデンの化学者J.J.ベルセリウスが1836年,そのような働きをする物質に注目し,ギリシア語のkatalysis(原義はもつれ,結び目などを解く,ゆるめること)から命名した。すでに古くから糖を原料とするアルコール発酵やアルコールの酢酸発酵が行われ,18世紀前半にはリネン漂白のための鉛室式硫酸製造が始まっていたが,さらに酸によるデンプンの糖化が見いだされ(1781),イギリスのH.デービーにより加熱白金線による発火点以下での水素,一酸化炭素,エチレン,アルコール,エーテルなどの燃焼に関する公開実験がロンドンのローヤル・インスティチューションで行われ(1817),また塩素酸カリウムからの酸素発生反応における二酸化マンガンの促進効果,エチルアルコールからエーテルを得る脱水反応における硫酸添加効果など,注目に値するこの種の現象が多く見いだされるようになった。当時化学界の大御所であったベルセリウスは,通常の化学親和力によらないそれらの現象に興味を抱き,化学反応をひき起こす新しい概念として,この考えを提起したのであった。…
…スコットランドのストロンチアンに産する鉱物ストロンチアン石(炭酸ストロンチウムSrCO3を主成分とする)から,1790年にイギリスのクローフォードAdair Crawford(1748‐95)によって発見されたのでこの名がある。融触塩の電気分解によって,金属単体としてはじめて取り出したのはH.デービー(1808)である。天然に存在する量はカルシウムよりはるかに少ない。…
…麻酔法が急速に発展したのは19世紀に入ってからであった。1799年デービーHumphry Davy(1778‐1829)は笑気(一酸化二窒素N2O)吸入の麻酔作用を発見,ロングCrawford Williamson Long(1815‐78)は1842年エーテル麻酔で頸部腫瘍摘出術を行った。歯科医W.T.G.モートンは46年10月16日マサチューセッツ総合病院臨床講堂でエーテル麻酔を供覧した。…
※「デービー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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