百科事典マイペディア 「ミヤスコフスキー」の意味・わかりやすい解説
ミヤスコフスキー
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ソ連邦の作曲家,教育者。チャイコフスキーの伝統の上に新しい交響曲の創造を目ざした作曲家として知られる。ペテルブルグ音楽院で学ぶ。第1次大戦に従軍。1921年モスクワ音楽院作曲科教授となり終生その地位にあった。革命の精神を表した《交響曲第6番》(1923),十月革命15周年記念のための《交響曲第12番コルホーズ》(1932),構築性と抒情的歌謡性を融合させた《交響曲第21番交響的幻想》(1940。スターリン賞),カフカス地方の民謡研究を結実させた《交響曲第23番》(1941),《チェロ協奏曲》(1944。スターリン賞)などを発表,46年には〈人民芸術家〉の称号を受けた。48年ジダーノフ批判で形式主義を問われたが,最後の交響曲《第27番》(1949)で深い抒情と壮大さを旋律に託し,これにこたえた。作品にはほかに室内楽,ピアノ曲,合唱曲,歌曲などがある。
執筆者:小場瀬 純子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ソ連の作曲家。軍人の教育を受けたのち、25歳でペテルブルグ音楽院に入学し、リャードフとリムスキー・コルサコフに師事。1921年から終生モスクワ音楽院で教鞭(きょうべん)をとり、カバレフスキーやハチャトゥリアンらを育てた。交響曲作家として国内で絶大な名声を得て27曲を残しているほか、協奏曲を含む管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲などがある。チャイコフスキーの伝統を受け継ぎ、民族的旋律を用いた叙情的で穏健な作風が特色になっている。
[益山典子]
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