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ソ連邦の作曲家。技師でポーランドの血を引く父と,シベリア金山の監督官の娘でピアニストの母との間に生まれたひとり息子。少年時代に彼の異常な音楽的才能に気づいた母親はその才能をたいせつに育てた。彼は1919年ペトログラード音楽院に入学し,ピアノをL.V.ニコラエフ,作曲をM.O.シテインベルグに学んだ。卒業作品として書いた《交響曲第1番》(1925)はいち早く国際的な評価を受け,彼の出世作となった。卒業後劇音楽や映画音楽に広く接し,20年代ソ連の自由な雰囲気の中で職人的な腕を磨いた。ピアニストとしても第1回ショパン・コンクールに派遣されるほどの手腕を発揮した。32年に完成したオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》はモスクワ,レニングラードだけでなく外国でも上演され大成功を収めた。しかしこのオペラは36年1月,大粛清時代の綱紀引締政策の中で厳しい批判を受け,彼は苦境に立った。すでに完成していた《交響曲第4番》を撤回してしばし筆を休めたあと,現在では〈革命〉の名で知られる《交響曲第5番》(1937)を書いて名誉を回復した。引き続き,《ピアノ五重奏曲》《交響曲第7番》《ピアノ三重奏曲第2番》など,第2次世界大戦中もすぐれた作品を残し,いくども国家賞に輝いた。大戦後48年のジダーノフ批判を受けるが,オラトリオ《森の歌》(1949)や映画音楽《ベルリン陥落》(1949),混声合唱曲《10の詩》(1951)などで批判に応え,繰り返し国家賞を与えられた。スターリンの死の直後に発表した《交響曲第10番》は悲観的な内容が論議を呼んだ。その後もエフトゥシェンコの詩による《交響曲第13番バービー・ヤール》(1962)がフルシチョフの批判を受けたり,死後には〈証言〉と称する反体制的な遺書を発表されたりして,常に話題となる生涯を送った。15の交響曲と15の弦楽四重奏曲が主要な作品とされるが,35にのぼる映画音楽をはじめ,あらゆる分野に数多くの作品を残し,現在なお最もしばしば演奏される20世紀作曲家の一人である。技法はきわめて保守的であるが,チャイコフスキー以来のロシアの劇的な交響曲の伝統を発展させた功績は高く評価されている。
執筆者:森田 稔
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…(1)ピアニストが画面を見ながらイメージに合わせて即興で演奏する。ショスタコービチも無名時代には家族を養うためにこうした映画館のピアニストをやっていたという。(2)やがて,映画のシーンの性格(愛のシーン,悲しみのシーン,追跡シーン等々)と音楽との関係に一定のパターンができて,伴奏音楽のために選曲,抜粋された小曲集が編まれ(1913年に初めて出版されたが,もっとも有名なものは19年にベルリンで発行されたジュゼッペ・ベッチュ編の《キノテーク》であったといわれる),それを基に映画館で演奏されるようになる。…
…しかし,一部に見られたリアリズム万能論への傾斜は,スターリン体制確立の過程で,世界観,イデオロギー強化の立場から強い反撃を受ける。30年代半ばにはバーベリ,ピリニャークら,独自のスタイルをもつ作家が粛清で大量に抹殺され,さらに作曲家ショスタコービチ批判,メイエルホリド劇場解散など,芸術界全般に及ぶ〈形式主義〉批判キャンペーンもあって,社会主義リアリズムはソビエト文学画一化のための具と化していく。〈内容において社会主義的,形式において民族的〉というスターリンの定義は,この方法のいっそうの教条化につながった。…
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