モハンマドレザーパフラビー(その他表記)Moḥammad Reḍā Pahlavī

改訂新版 世界大百科事典 の解説

モハンマド・レザー・パフラビー
Moḥammad Reḍā Pahlavī
生没年:1919-80

パフラビー朝の最後の国王。在位1941-79年。日本では,しばしばパーレビと記される。レザー・シャー・パフラビー皇太子で,第2次世界大戦下に父王が退位を余儀なくされ,これに代わって即位。大戦中,およびその直後からアメリカの圧力が強まるとともに,ソ連イランの民主主義闘争を支持して,イランは政治危機を迎えたが,国王はアメリカに強く結びついた。アメリカの後押しで国王権力は強化された。51年,モサッデク首相が石油国有化を行い国民の権利意識が高まると,53年にかけて国王とモサッデク首相との政治的対抗関係が激化した。国王は一時国外に脱出せざるをえなくなったが,将軍ザーヘディーのクーデタで復帰できた。こののち,秘密警察(SAVAK)を設けて反国王運動を弾圧した。62年,農地改革令を発し,63年以降〈白色革命〉を推進して,国王独裁体制を完成した。しかし,70年代後半から経済政策が破綻し,国王独裁体制に反対する広範な勢力を結集したイラン革命が起こると,79年1月イランを逃れ,80年エジプトで病死した。
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百科事典マイペディア の解説

モハンマド・レザー・パフラビー

パフラビー朝イラン国王(在位1941年―1979年)。パーレビとも。父はレザー・シャー・パフラビー米国への依存を深めて左派勢力やモサッデクらの民主化運動に敵対した。第2次大戦後,土地改革などいわゆる〈白色革命〉により国内近代化を促進し,独裁体制をしいた。1979年イラン革命失脚亡命先で死亡した。
→関連項目イランホメイニー

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20世紀西洋人名事典 の解説

モハンマド・レザー・パフラビー
Mohammad Rezā Pahlavī


1919.10.26 - 1980.7.27
イランの政治家。
元・イラン国王。
別名英名パーレビ(Pahlevi〉。
1941〜79年在位のパフラビー朝最後の国王、レザー・シャー・パフラビーの皇太子で父の退位により即位。アメリカと強く結びつき国王権力を強化、’53年石油国有化を進めるモサッデク首相と政治的に対立、激化し一時ローマに亡命、3日後ザーヘディー将軍のクーデタで帰国、’57年秘密警察サバクを設置し反国王運動を弾圧。’63年石油収入増大を機に農地改革、婦人参政権等の近代化政策を推進し国王独裁体制を確立。しかし70年代後半経済政策の破綻でイラン革命が起こり’79年エジプトに亡命、’80年カイロで没。

出典 日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」(1995年刊)20世紀西洋人名事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のモハンマドレザーパフラビーの言及

【イラン】より

…それはイランをめぐる英ソの勢力均衡を巧みに利用したものであった。 第2次大戦後,モハンマド・レザー・パフラビーは,イランをめぐる冷戦体制のもとで,アメリカとの結びつきを強め,イランの近代国家への脱皮が主権国家への道であることを旗印に,1963年以降白色革命とよばれる上からの強引な〈近代化〉政策を推進する。70年代以降は,増大する石油収入に自信を深め,国王主導型路線を邁進し,これを保証するサバクSAVAKをはじめとする膨大な抑圧機構をつくりあげる。…

【イラン革命】より

…その課題と目標はイスラム革命enqelāb‐e Islāmīとして表明された。イランが米ソ冷戦の焦点となって以来,国王モハンマド・レザー・パフラビーはアメリカに支えられ,国内の民主主義を抑圧してきた。1953年モサッデク打倒後,国王は軍と治安警察を強化して独裁機構を確立し,63年農地改革,国営工場の民間払下げ,企業利潤の労働者への分配,婦人参政権,文盲撲滅などの目標を掲げた白色革命の発足とともに,上からの改革を強権でもって進めようとした。…

※「モハンマドレザーパフラビー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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