イギリスの植民地行政官でシンガポールの建設者。イギリス商船の船長を父として中米ジャマイカ沖の船内で生まれた。東インド会社事務員として訓練を受け,1805年にペナンに派遣されたが,健康を害して08年にマラッカに転地療養中,この港のオランダへの返還計画を聞き,カルカッタのインド総督ミントーに報告書を送ってその中止を進言し,賛同を得た。以来ミントーは彼を信頼し,10年に彼がカルカッタに行ってジャワ進攻を提案したときもこれを採用し,彼にその準備を命じた。遠征はマラッカを基地としてミントー自身の指揮下に11年8月に開始され,バタビア(現,ジャカルタ)は抵抗もなく占領された。フランスが任命した東インド総督ヤンセンスは翌月降服し,ラッフルズはこのときから16年3月までジャワ副総督の職についた。彼はジャワの制度,文物を詳しく調査し,税制の近代化,奴隷廃止,拷問の禁止などに尽力した。彼はジャワをイギリスの東洋制覇の中心とするつもりであったが,16年にジャワがオランダに返還されたのでいったん帰国し,18-23年のあいだスマトラ西岸のベンクーレン(現,ベンクル)の副総督として勤務しつつ貿易の適地を探し求めた。そして19年1月にシンガポール島を獲得してその建設に尽力し,24年に帰国した。ボロブドゥール遺跡の復元や動植物の新種発見にも貢献し,大著《ジャワ誌》2巻(1817)を著した。信夫清三郎著《ラッフルズ》伝がある。
執筆者:永積 昭
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イギリスの植民地経営者。ジャマイカに生まれ、1795年ごろイギリス東インド会社に雇員として入社、1800年正社員となった。05年結婚すると同時にイギリスを離れてマレー半島のペナンに赴任し、書記として勤務するかたわら、マレー語、マレー文化の研究に没頭した。11年ナポレオン戦争に際して、会社はオランダ領であったジャワを占領したが、この計画の首唱者であったラッフルズは、このときジャワの副総督に任命され、16年まで在任し、独自の主張に基づく住民保護を目的とした植民政策を実行し、土地改革、行政改革を行い、またジャワ文化の研究を行った。
1816年副総督を辞していったん帰国し、『ジャワ誌』全二巻(1817)を刊行、さらにアジア地域におけるイギリスの植民地支配の確立が必要なことを主張した。17年スマトラのベンクーレンの副総督として再度アジアに赴任し、24年まで在任したが、この間19年に新しい根拠地としてシンガポール島をジョホール王国から獲得し、ここを自由港として経営し、また革新的な内容の政策を実施した。しかし、会社の内部で彼の政策では利益をあげることができないという強い批判を受け、また健康を害したこともあって24年に帰国した。このとき収集した研究材料を船火事のために失った。帰国後政治家を志し、また博物館、学会を創設しようとしたが、26年7月5日脳卒中で急死した。
[生田 滋]
『信夫清三郎著『ラッフルズ伝』(平凡社・東洋文庫)』
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1781~1826
東南アジアにおけるイギリスの勢力拡大に活躍した植民地行政官。ナポレオン戦争中の1811~16年に副総督としてイギリスのジャワ統治を担当し,在地支配層の間接統治を廃して直接的統治の導入を試みた。その後イギリスの新たな交易拠点の獲得に努め,19年ジョホール・リアウ王国からシンガポールを割譲させ,自由港とした。彼はジャワやマレー諸国について精力的に研究し,『ジャワ誌』を著すなど学術活動でも活躍した。
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… バタビア共和国は次第にフランスの支配下に入り,ナポレオンに心酔する軍人ダーンデルスが総督に任命され,フランス最大の敵国イギリスのインドネシア進出に備えた。イギリスはこのころマラッカを占領していたが,イギリス東インド会社職員ラッフルズは強力にジャワ進攻を提案し,ついに1811‐16年ジャワを占領した。副総督に就任したラッフルズは土地制度や税制の近代化を試みたが,ナポレオン戦争の終結後ジャワはオランダに返還されることになり,復帰したオランダ植民地政庁は次第にラッフルズの近代的政策を放棄し,土着首長を利用する従来の間接統治方式に戻った。…
… 18世紀末ころには王国は大きく分けてリアウ王国,パハン王国に分かれていた。1819年イギリス人ラッフルズはシンガプラ(シンガポール)島に上陸し,リアウの反国王派の王族を招いてジョホール国王とし,シンガプラ島に要塞と植民地を建設する条約を承認させた。24年の英蘭協約によってイギリスとオランダの勢力範囲が確定したが,その副産物としてリアウ王国とジョホール王国の分離が決定的なものとなり,ジョホール王国はマレー半島南部を支配し,リアウ王国はスマトラ中部と付近の島を支配することになった。…
…しかしこの多様性は,シンガポール独自の文化的特色不在論につながり,中国人でもマレー人でもないシンガポール人とは何か,新しい民族の価値観はいかにあるべきか,の議論を生んでいる。【太田 勇】
[歴史]
シンガポールとはシンガプラ(サンスクリットで〈獅子の町〉の意)の転訛した呼称で,このシンガポール島には古くから貿易港があったらしいが,その歴史はイギリス東インド会社のラッフルズに始まるといってよい。1819年,ラッフルズは当時わずかの住民しか住んでいなかったこの島に到着し,島の支配者から植民地と商館建設の許可を得た。…
…14世紀半ばには一部倒壊したボロブドゥールの存在がすでに知られていたようである。しかし世界的に知られるようになったのは,1814年ジャワ副総督ラッフルズと技師コルネリウスによって再発見されてからである。その後86年には現在の基壇の内部に,一部未完成ではあるが160面の彫刻のあるもとの基壇が発見され,建設途中に工事変更のあったことが判明した。…
…たまたまナポレオン戦争が起こり,イギリスはフランスの支配下にあったオランダと戦い,ムラカを占領した。ナポレオン戦争が終わると,会社はムラカをオランダに返還したが,ラッフルズはオランダに対抗するために,マラッカ海峡の出口付近に根拠地を獲得することを主張し,1819年にシンガポールに植民地を獲得した。1824年に英蘭協約が締結され,ペナン,ムラカ,シンガポールが会社の植民地となり,海峡植民地と呼ばれた。…
※「ラッフルズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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