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ラッフルズ Raffles, Sir Thomas Stamford

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ラッフルズ
Raffles, Sir Thomas Stamford

[生]1781.7.6. ポートモラント
[没]1826.7.5. ハイウッド
イギリスの植民地政治家。生れたのはジャマイカのモラント港沖に停泊中の父の商船の中。ロンドンのマンション・ハウス寄宿学校を卒業。 1800年イギリス東インド会社の常勤の書記となり,マレー半島の商館に勤務。ナポレオン戦争中,一時フランスの支配下に入ったオランダ領のジャワの征服をインド総督ミントー卿に進言した。 11年ミントー卿はジャワを攻撃し,バタビアを陥落させてジャワ全土を占領すると,ラッフルズを占領地の行政責任者とした。ラッフルズはオランダがジャワに導入していた義務供出制度を廃止し,自由主義的な地租制度を導入したが,ジャワのイギリス領植民地は 16年オランダに返還された。 19年シンガポールに上陸し,イギリス商館建設の条約を締結,イギリスの東洋政策の根拠地を建設した。ロンドン動物学協会初代会長。主著『ジャワ誌』 The History of Java (1817) 。

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デジタル大辞泉の解説

ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)

[1781~1826]英国の植民地行政官。1811年ジャワ遠征に成功し、占領して副総督となる。任期中にボロブドゥール遺跡などを調査した。1819年シンガポール島を獲得し、貿易基地を建設して自由港宣言を行った。著「ジャワ誌」。

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百科事典マイペディアの解説

ラッフルズ

英国の植民地行政家。インド・東南アジアにおける植民地政策推進に活躍。初め東インド会社員となり,マレーで活動。のち1811年ジャワに進攻,副総督となり,税制など諸改革を推進。
→関連項目オランダ領東インドジョホール[州]シンガポール(国)シンガポール(都市)

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世界大百科事典 第2版の解説

ラッフルズ【Thomas Stamford Raffles】

1781‐1826
イギリスの植民地行政官でシンガポールの建設者。イギリス商船の船長を父として中米ジャマイカ沖の船内で生まれた。東インド会社事務員として訓練を受け,1805年にペナンに派遣されたが,健康を害して08年にマラッカに転地療養中,この港のオランダへの返還計画を聞き,カルカッタのインド総督ミントーに報告書を送ってその中止を進言し,賛同を得た。以来ミントーは彼を信頼し,10年に彼がカルカッタに行ってジャワ進攻を提案したときもこれを採用し,彼にその準備を命じた。

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大辞林 第三版の解説

ラッフルズ【Thomas Stamford Raffles】

1781~1826) イギリスの植民地行政官。東洋政策の拠点としてシンガポールを1819年に獲得し貿易港を築いた。著「ジャワ誌」

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ラッフルズ
らっふるず
Sir Thomas Stamford Raffles
(1781―1826)

イギリスの植民地経営者。ジャマイカに生まれ、1795年ごろイギリス東インド会社に雇員として入社、1800年正社員となった。05年結婚すると同時にイギリスを離れてマレー半島のペナンに赴任し、書記として勤務するかたわら、マレー語、マレー文化の研究に没頭した。11年ナポレオン戦争に際して、会社はオランダ領であったジャワを占領したが、この計画の首唱者であったラッフルズは、このときジャワの副総督に任命され、16年まで在任し、独自の主張に基づく住民保護を目的とした植民政策を実行し、土地改革、行政改革を行い、またジャワ文化の研究を行った。
 1816年副総督を辞していったん帰国し、『ジャワ誌』全二巻(1817)を刊行、さらにアジア地域におけるイギリスの植民地支配の確立が必要なことを主張した。17年スマトラのベンクーレンの副総督として再度アジアに赴任し、24年まで在任したが、この間19年に新しい根拠地としてシンガポール島をジョホール王国から獲得し、ここを自由港として経営し、また革新的な内容の政策を実施した。しかし、会社の内部で彼の政策では利益をあげることができないという強い批判を受け、また健康を害したこともあって24年に帰国した。このとき収集した研究材料を船火事のために失った。帰国後政治家を志し、また博物館、学会を創設しようとしたが、26年7月5日脳卒中で急死した。[生田 滋]
『信夫清三郎著『ラッフルズ伝』(平凡社・東洋文庫)』

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世界大百科事典内のラッフルズの言及

【オランダ領東インド】より

… バタビア共和国は次第にフランスの支配下に入り,ナポレオンに心酔する軍人ダーンデルスが総督に任命され,フランス最大の敵国イギリスのインドネシア進出に備えた。イギリスはこのころマラッカを占領していたが,イギリス東インド会社職員ラッフルズは強力にジャワ進攻を提案し,ついに1811‐16年ジャワを占領した。副総督に就任したラッフルズは土地制度や税制の近代化を試みたが,ナポレオン戦争の終結後ジャワはオランダに返還されることになり,復帰したオランダ植民地政庁は次第にラッフルズの近代的政策を放棄し,土着首長を利用する従来の間接統治方式に戻った。…

【ジョホール王国】より

… 18世紀末ころには王国は大きく分けてリアウ王国,パハン王国に分かれていた。1819年イギリス人ラッフルズはシンガプラ(シンガポール)島に上陸し,リアウの反国王派の王族を招いてジョホール国王とし,シンガプラ島に要塞と植民地を建設する条約を承認させた。24年の英蘭協約によってイギリスとオランダの勢力範囲が確定したが,その副産物としてリアウ王国とジョホール王国の分離が決定的なものとなり,ジョホール王国はマレー半島南部を支配し,リアウ王国はスマトラ中部と付近の島を支配することになった。…

【シンガポール】より

…しかしこの多様性は,シンガポール独自の文化的特色不在論につながり,中国人でもマレー人でもないシンガポール人とは何か,新しい民族の価値観はいかにあるべきか,の議論を生んでいる。【太田 勇】
[歴史]
 シンガポールとはシンガプラ(サンスクリットで〈獅子の町〉の意)の転訛した呼称で,このシンガポール島には古くから貿易港があったらしいが,その歴史はイギリス東インド会社のラッフルズに始まるといってよい。1819年,ラッフルズは当時わずかの住民しか住んでいなかったこの島に到着し,島の支配者から植民地と商館建設の許可を得た。…

【ボロブドゥール】より

…14世紀半ばには一部倒壊したボロブドゥールの存在がすでに知られていたようである。しかし世界的に知られるようになったのは,1814年ジャワ副総督ラッフルズと技師コルネリウスによって再発見されてからである。その後86年には現在の基壇の内部に,一部未完成ではあるが160面の彫刻のあるもとの基壇が発見され,建設途中に工事変更のあったことが判明した。…

【マレーシア】より

…たまたまナポレオン戦争が起こり,イギリスはフランスの支配下にあったオランダと戦い,ムラカを占領した。ナポレオン戦争が終わると,会社はムラカをオランダに返還したが,ラッフルズはオランダに対抗するために,マラッカ海峡の出口付近に根拠地を獲得することを主張し,1819年にシンガポールに植民地を獲得した。1824年に英蘭協約が締結され,ペナン,ムラカ,シンガポールが会社の植民地となり,海峡植民地と呼ばれた。…

※「ラッフルズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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