ラッフルズ(英語表記)Thomas Stamford Raffles

デジタル大辞泉 「ラッフルズ」の意味・読み・例文・類語

ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)

[1781~1826]英国の植民地行政官。1811年ジャワ遠征に成功し、占領して副総督となる。任期中にボロブドゥール遺跡などを調査した。1819年シンガポール島獲得し、貿易基地建設して自由港宣言を行った。著「ジャワ誌」。

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精選版 日本国語大辞典 「ラッフルズ」の意味・読み・例文・類語

ラッフルズ

  1. ( Thomas Stamford Raffles トマス=スタンフォード━ ) イギリスの植民地政治家。ジャワ・スマトラなどで自由主義的な植民地経営を行ない、のちシンガポールに自由港を建設した。主著「ジャワ誌」。(一七八一‐一八二六

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改訂新版 世界大百科事典 「ラッフルズ」の意味・わかりやすい解説

ラッフルズ
Thomas Stamford Raffles
生没年:1781-1826

イギリスの植民地行政官でシンガポールの建設者。イギリス商船の船長を父として中米ジャマイカ沖の船内で生まれた。東インド会社事務員として訓練を受け,1805年にペナンに派遣されたが,健康を害して08年にマラッカに転地療養中,この港のオランダへの返還計画を聞き,カルカッタのインド総督ミントーに報告書を送ってその中止を進言し,賛同を得た。以来ミントーは彼を信頼し,10年に彼がカルカッタに行ってジャワ進攻を提案したときもこれを採用し,彼にその準備を命じた。遠征はマラッカを基地としてミントー自身の指揮下に11年8月に開始され,バタビア(現,ジャカルタ)は抵抗もなく占領された。フランスが任命した東インド総督ヤンセンスは翌月降服し,ラッフルズはこのときから16年3月までジャワ副総督の職についた。彼はジャワの制度,文物を詳しく調査し,税制の近代化,奴隷廃止,拷問の禁止などに尽力した。彼はジャワをイギリスの東洋制覇の中心とするつもりであったが,16年にジャワがオランダに返還されたのでいったん帰国し,18-23年のあいだスマトラ西岸のベンクーレン(現,ベンクル)の副総督として勤務しつつ貿易の適地を探し求めた。そして19年1月にシンガポール島を獲得してその建設に尽力し,24年に帰国した。ボロブドゥール遺跡の復元動植物の新種発見にも貢献し,大著《ジャワ誌》2巻(1817)を著した。信夫清三郎著《ラッフルズ》伝がある。
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百科事典マイペディア 「ラッフルズ」の意味・わかりやすい解説

ラッフルズ

英国の植民地行政家。インド・東南アジアにおける植民地政策推進に活躍。初め東インド会社員となり,マレーで活動。のち1811年ジャワに進攻,副総督となり,税制など諸改革を推進。のちスマトラ副総督となり,ジャワがオランダに返還されるや,1819年シンガポールを獲得し,イギリスの東洋における基地を建設。著書《ジャワ誌》など。
→関連項目オランダ領東インドジョホール[州]シンガポール(国)シンガポール(都市)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラッフルズ」の解説

ラッフルズ
Thomas Stamford Raffles

1781~1826

東南アジアにおけるイギリスの勢力拡大に活躍した植民地行政官。ナポレオン戦争中の1811~16年に副総督としてイギリスのジャワ統治を担当し,在地支配層の間接統治を廃して直接的統治の導入を試みた。その後イギリスの新たな交易拠点の獲得に努め,19年ジョホール・リアウ王国からシンガポールを割譲させ,自由港とした。彼はジャワやマレー諸国について精力的に研究し,『ジャワ誌』を著すなど学術活動でも活躍した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラッフルズ」の解説

ラッフルズ
Thomas Stamford Raffles

1781〜1826
イギリスの植民地官吏・博物学者
東インド会社の社員であったが,1811年ナポレオン戦争に乗じ,イギリスがジャワ島を占領すると同島の副総督となり,オランダの植民政策を改革して自由主義的政策をとった。ウィーン会議でジャワ島がオランダに返還されると,東南アジア〜東アジア貿易の拠点としてシンガポールの重要性に着目し,1819年にジョホール王から獲得して植民市の建設に努力し,24年にはイギリス領とした。帰国後は,動物学協会の設立に努力した。著書に『ジャワ誌』がある。

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世界大百科事典(旧版)内のラッフルズの言及

【オランダ領東インド】より

… バタビア共和国は次第にフランスの支配下に入り,ナポレオンに心酔する軍人ダーンデルスが総督に任命され,フランス最大の敵国イギリスのインドネシア進出に備えた。イギリスはこのころマラッカを占領していたが,イギリス東インド会社職員ラッフルズは強力にジャワ進攻を提案し,ついに1811‐16年ジャワを占領した。副総督に就任したラッフルズは土地制度や税制の近代化を試みたが,ナポレオン戦争の終結後ジャワはオランダに返還されることになり,復帰したオランダ植民地政庁は次第にラッフルズの近代的政策を放棄し,土着首長を利用する従来の間接統治方式に戻った。…

【ジョホール王国】より

… 18世紀末ころには王国は大きく分けてリアウ王国,パハン王国に分かれていた。1819年イギリス人ラッフルズはシンガプラ(シンガポール)島に上陸し,リアウの反国王派の王族を招いてジョホール国王とし,シンガプラ島に要塞と植民地を建設する条約を承認させた。24年の英蘭協約によってイギリスとオランダの勢力範囲が確定したが,その副産物としてリアウ王国とジョホール王国の分離が決定的なものとなり,ジョホール王国はマレー半島南部を支配し,リアウ王国はスマトラ中部と付近の島を支配することになった。…

【シンガポール】より

…しかしこの多様性は,シンガポール独自の文化的特色不在論につながり,中国人でもマレー人でもないシンガポール人とは何か,新しい民族の価値観はいかにあるべきか,の議論を生んでいる。【太田 勇】
[歴史]
 シンガポールとはシンガプラ(サンスクリットで〈獅子の町〉の意)の転訛した呼称で,このシンガポール島には古くから貿易港があったらしいが,その歴史はイギリス東インド会社のラッフルズに始まるといってよい。1819年,ラッフルズは当時わずかの住民しか住んでいなかったこの島に到着し,島の支配者から植民地と商館建設の許可を得た。…

【ボロブドゥール】より

…14世紀半ばには一部倒壊したボロブドゥールの存在がすでに知られていたようである。しかし世界的に知られるようになったのは,1814年ジャワ副総督ラッフルズと技師コルネリウスによって再発見されてからである。その後86年には現在の基壇の内部に,一部未完成ではあるが160面の彫刻のあるもとの基壇が発見され,建設途中に工事変更のあったことが判明した。…

【マレーシア】より

…たまたまナポレオン戦争が起こり,イギリスはフランスの支配下にあったオランダと戦い,ムラカを占領した。ナポレオン戦争が終わると,会社はムラカをオランダに返還したが,ラッフルズはオランダに対抗するために,マラッカ海峡の出口付近に根拠地を獲得することを主張し,1819年にシンガポールに植民地を獲得した。1824年に英蘭協約が締結され,ペナン,ムラカ,シンガポールが会社の植民地となり,海峡植民地と呼ばれた。…

※「ラッフルズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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