ナポレオン戦争後,ヨーロッパの政治的再編のためウィーンで開かれた列国会議。会議は1814年9月18日の予備会談から翌15年6月9日の最終議定書の締結まで続いたが,その間全体会議は一度として開かれず,もっぱら大国代表からなる委員会で具体的な詰めが行われ,映画《会議は踊る》の題名に象徴されているように,それは権謀術策を旨とする舞台裏の饗宴外交であった。会議には200人以上の国家の代表が参加し,オーストリア外相メッテルニヒが議長となった。またロシアからは皇帝アレクサンドル1世がみずから出席し,そのほかイギリス外相カースルレー,プロイセン首相ハルデンベルク,フランス代表タレーランが議場の主役を務めた。当初,イギリス,オーストリア,プロイセン,ロシアの四大国は自分たちだけでヨーロッパの領土的再編を取り決め,同じくパリ講和(パリ条約)に参加したスペイン,ポルトガル,スウェーデンの3国には事後承諾させればよいと考えた。しかしタレーランは,それら3国の不満,また四大国の内部矛盾を巧みに利用し,結局フランスを対等の構成員とした五大国委員会(1815年1月7日~2月13日)で領土再編の具体案をつくらせることに成功した。さらに諸国の協調を生み出す外的要因としてナポレオンのエルバ島脱出があった。
領土再編問題の焦点はロシアの旧ポーランド領併合要求と,プロイセンの全ザクセン併合要求であった。しかしイギリス,オーストリア,フランスは秘密同盟をつくってそれに反対し,一時戦争の危機すら生じたが,結局ロシアが譲歩し,ワルシャワ大公国を同君連合の王国として支配下に収めることで満足したため,危機は回避された。プロイセンはザクセンの北半分だけで満足した代りにラインラント,ウェストファーレンなどを獲得した。ザクセンを除く他のドイツ諸国もそれぞれ領土を拡大し,オランダとベルギーは合体してネーデルラント王国をつくり,さらにオーストリアもベルギーを失った代りに,チロル,ザルツブルク,ケルンテンなどを得たほか,ロンバルディア・ベネチア,トスカナ,モデナを支配下に収めた。スイスは三つの州を得たほか,永世中立の保障を受けた。さらに1806年に廃された神聖ローマ帝国に代わって新たにドイツ連邦が成立した。そのほか奴隷売買の追放が宣言され,国際河川の自由航行が承認され,外交使節の位階上の4区分が確認された。
ウィーン会議はヨーロッパにおける大国間の勢力均衡を生むことに一応成功した。しかしその歴史的性格は復古的であった。それはフランス革命とナポレオン支配によって生み出された変化を元にもどし,正統主義の名のもとに王制原理を再建することを眼目としたから,そこで成立したドイツ連邦にしても,ドイツを統一して近代的な民族国家を創出するという方向には作動せず,むしろ分立的な領邦的絶対主義体制を固めた。したがってこの会議によって生み出されたウィーン体制も自由主義や民主主義に対抗する保守主義に貫かれていたといえる。
執筆者:良知 力
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ナポレオン戦争の戦後処理を行った国際会議。ナポレオン退位から5か月後の1814年9月に始まり、15年6月9日の最終議定書調印によって終わった。この会議にはほとんどヨーロッパ中の君主や統治者が参集したが、実際にはオーストリア、プロイセン、ロシア、イギリスの4か国が会議の主導権をとり、主要な決定は、ことごとく大国によって行われた。
戦後処理の主眼は、復古による革命勢力の抑圧と、勢力均衡の原理による安定した国際秩序の創出に置かれた。会議の結果を要約すれば以下のとおりである。
(1)敗戦国フランスの領土削減と封じ込めを目的として、オランダにベルギーを取得せしめ、プロイセンにザクセンの5分の2その他を与えてその強化を図り、スイスの連邦形成と永世中立の要求を認めるなどフランス周辺に障壁を形成した。
(2)ドイツ諸邦については、ナポレオン戦争を通じ300余から38に減じた諸邦をそのまま認めて、勢力均衡の見地から緩い「連邦」の形での「中欧に強国なき」状態を持続させた。
(3)ナポレオンに対する軍事的勝利に立脚して一挙に膨張しようとするロシアを制して、クラクフを独立市、ダンツィヒをプロイセン領とするなど削減した残りのポーランド領をロシアに与えた。
(4)オーストリアについては、ベルギーの放棄を北イタリア取得で代償し、またドイツ連邦の盟主としての地位をこれに与えて、プロイセンの台頭に備えさせた。
ウィーン会議はまた、国際河川の自由航行の原則を確立したことや、外交上の制度、慣例を定めたことでも知られている。
ウィーン会議の進行はけっして順調ではなかった。当初に戦勝四大国が会議の主導権をとることで合意するや、フランスの外相タレーランが乗り込んで諸小国の不満を背景に自国の発言権を確保したり、1815年1月にはロシアの横暴を阻止するため、フランス、オーストリア、イギリスが秘密協定を結ぶなど、会議は対立に悩まされたうえ、ナポレオンが突如エルバ島を脱出(1815年2月)して「百日天下」を演ずるなど椿事(ちんじ)が出来(しゅったい)した。しかし、会議を主宰したオーストリアの宰相メッテルニヒは、ウィーンに集まった各国代表のために舞踏会を開いて機の熟するのを待ち(このため「会議は踊る。されど会議は進まず」という風刺が生まれた)、イギリス外相カースルレーも対立する要求の仲介者として活躍するなど、ヨーロッパの古典的外交の粋が発揮されたことも事実である。
[百瀬 宏]
『高坂正堯著『古典外交の成熟と崩壊』(1978・中央公論社)』
フランス革命およびナポレオンの大陸支配によって乱されたヨーロッパの秩序回復のため,1814年9月から15年6月まで,ウィーンで開催されたヨーロッパ諸国の国際会議。ロシア,オーストリア,プロイセン,イギリスの4大国が事実上の決定権を持って会議を指導したが,領土配分をめぐって諸国の利害が対立,「会議は踊る,されど進まず」と評された。15年3月ナポレオンのエルバ島脱出,帝位復帰事件を機に諸国は妥協に傾き,同年6月9日会議議定書121条が調印された。革命前の支配関係を正統と認める正統主義と,一国が突出しないようヨーロッパ諸国の勢力均衡を図ることとを二大原則としたこの議定内容は,大略次のとおり。(1)オーストリアはヴェネツィア,ロンバルディアなどを獲得,(2)プロイセンはラインおよびザクセン地方に領土を拡大,(3)ロシアはポーランドを獲得,(4)イギリスはセイロン島やケープ植民地を獲得,(5)オランダはベルギーを合併,(6)スイスは永世中立国となる,(7)ドイツ諸邦はドイツ連邦を結成,(8)イタリアではナポリにブルボン家が復活,教皇領も復旧,(9)フランスとスペインでブルボン家が復位。
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…1961年4月18日ウィーン会議で採択され,64年4月24日発効した外交関係に関する基本的な多数国間条約。日本については64年7月8日に発効(1983年2月1日現在,主要国を含む135ヵ国が加入)。…
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[安全保障の歴史]
国家安全保障という概念の起源は,主権国家nation stateの形成とその軌を一にすると思われるが,それが国家間の認識のもとに出現するのは,ヨーロッパ最初の国際会議の結果成立したウェストファリア条約(1648)によってであるといわれている。すなわち,この条約によって宗教問題,領土問題に決着をつけ,ウィーン会議(1814‐15)に至る間のヨーロッパの国家関係を律する基本線が確立されたのである。ウィーン会議の結果,勢力均衡の原則,正統主義の原則,便宜主義の三つの主義原則がたてられ,ヨーロッパ各国の自国利益の主張と妥協のもとに国際政治の体制ができた。…
※「ウィーン会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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