ラーマクリシュナ(その他表記)Ramakrishna Paramahamsa

デジタル大辞泉 「ラーマクリシュナ」の意味・読み・例文・類語

ラーマクリシュナ(Rāmakṛṣṇa Paramahansa)

[1836~1886]インドの神秘的思想家宗教偏見を否定し、すべての信仰真理に達すると説いた。

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精選版 日本国語大辞典 「ラーマクリシュナ」の意味・読み・例文・類語

ラーマクリシュナ

  1. ( [サンスクリット語] Rāmakṛṣṇa, Paramahansa ) インドの宗教改革家。ベンガル生まれ。ベーダーンタ哲学を学ぶ。キリスト教イスラム教をも含めた広い視野で、ヒンドゥー教の改革に志して、全宗教の合一を目指すラーマクリシュナ教団を設立した。(一八三六‐八六

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改訂新版 世界大百科事典 「ラーマクリシュナ」の意味・わかりやすい解説

ラーマクリシュナ
Ramakrishna Paramahamsa
生没年:1836-86

インドの宗教家。史上まれにみる神秘家といわれる。本名ゴダドル・チョットパッダエ。ベンガルのフーグリ県カマルプクル村のバラモン(ブラーフマン)僧の三男として生まれる。その家系はラーリー・ブラーフマンに所属し,ベンガルで最高位のバラモン氏族の一つであった。しかし幼少時から異常な宗教体験に見舞われた彼は,バラモン僧にふさわしい正規の教育を受けられなかった。1855年,コイボルト(農業カースト)の富豪未亡人ラニ・ラシュモニ(1793-1861)がカルカッタ郊外に建立した,ドッキネッショル寺院の寺僧(プローヒタ)となる。長兄の縁故であった。以後86年に遷化(せんげ)するまで,この寺院に生涯を過ごす。19歳の55年から30歳の66年前半までは,激しい修行時代であった。修行は特定のヒンドゥー教宗派の行法によらず,指導者もなく,まったく内発的で自己流の仕方で始まった。世間の眼には狂人としか映らない遮二無二の修行の結果,彼はカリ女神(カーリー)と対面する見神体験を得た。25歳のときタントラ派(タントラ)の女性行者ヨーゲーシュバリーと出会い,自分の修行をヒンドゥー神秘思想の系譜に位置づけることができた。彼女の指導下にタントラ派の64種の行法のすべてを成就し,ヨーゲーシュバリーは彼を神の化身(アバターラ)であると確信した。次にビシュヌ派の行法を学ぶ。65年ころ,ベーダーンタ学派の哲学を奉ずる遊行者トーター・プリーに出会い,彼を師に出家式を行い,ラーマクリシュナの名を与えられた。トーター・プリーの指導下に,彼は無形,無相,永遠のブラフマン(すなわちアートマン〈真我〉でもある)を経験するに至った。この状態は無分別三昧(ニルビカルパ・サマーディ)といわれ,これを体験することによって彼はヒンドゥー神秘主義の伝統のうちに完全に定位された。彼は行の人であり,その思想にはとくに独創的なところはないが,修学を通じて無相・無形のブラフマンが有形の人格神と不異であることを明らかにした意義は大きい。66年以降,彼は教化の生活に入ったが,一方66年にはイスラム神秘主義スーフィズムによって修行,預言者ムハンマドのビジョンを見,74年にはキリスト教による見神体験を得ている。こうした体験を通じて,彼は〈道はさまざまであっても真実は一つ〉というインド固有の宗教観を自証。この立場は近代ヒンドゥー普遍主義の礎となった。75年のケショブチョンドロ・シェーン(1838-84)との出会いを通じて,ラーマクリシュナの名声はベンガルの知識人社会にひろがった。彼のまわりには数多くの知識人が集まるようになり,ヒンドゥー教の伝統が近代的に再生する気運を促した。ラーマクリシュナの法灯を受け継ぎ,ラーマクリシュナ・ミッションを組織したビベーカーナンダも,この時期に弟子となった。ヒンドゥー教のさまざまな伝統を修行面で融合,体現し,巧みな比喩を用いて平易に語った彼の語録のうち,モヘンドロナト・グプト(1854-1932)の《大聖ラーマクリシュナ不滅の言葉》(5巻,1904-32)が最も人口に膾炙(かいしや)している。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラーマクリシュナ」の意味・わかりやすい解説

ラーマクリシュナ
らーまくりしゅな
Rāmaka Paramahansa
(1836―1886)

近代インドの宗教家。本名はガダーダル・チャットーパーディヤーヤGadādhar Cattopādhyāya。ベンガルの貧しいバラモンの家に生まれ、学校教育はほとんど受けていない。幼時からさまざまな神秘体験をした。17、18歳でカルカッタ(現、コルカタ)に出て、祈祷(きとう)や祭式の仕事をしていたが、21、22歳のころ、タクシネーシュバルのカーリー女神を祀(まつ)る寺院の役僧となった。その後12年間、彼は世俗を捨てた生活を送り、ベーダーンタ哲学やビシュヌ派の諸聖典の研鑽(けんさん)に努めた。その結果、神秘的交感のうちにカーリー女神やその他のヒンドゥー教の諸神との合一を達成でき、自らを神の化身(けしん)と考えるようになった。その後もイスラム教やキリスト教に接近し、それぞれの宗教の修行を積み、さまざまな神秘体験を得、ついにあらゆる宗教において神に至る道が同一であることを確信した。このような体験と確信に基づいて神のことばと真理を語り始めた彼のもとに多くの民衆が集まり、1875年ごろにはベンガル地方の大きな宗教勢力となった。しかし、局地的な存在にすぎなかった彼の名を世界的にしたのは、1882年に彼の弟子となったビベーカーナンダである。ビベーカーナンダはラーマクリシュナの死後、その名を冠したラーマクリシュナ・ミッションを設立して、世界に向けての組織的な伝道活動を行った。

[増原良彦 2018年5月21日]

『奈良康明著『人類の知的遺産53 ラーマクリシュナ』(1983・講談社)』『マヘンドラナートグプタ著、日本ヴェーダーンダ協会訳『ラーマクリシュナの福音』(1981・日本ヴェーダーンダ協会)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラーマクリシュナ」の解説

ラーマクリシュナ
Ramakrishna Paramahamsa

1836~86

インドの宗教家。ベンガルバラモンの家に生まれる。カルカッタ近郊のドッキネッショル寺院の寺僧となり,神秘的な宗教体験を重ねた。ヒンドゥー教の神秘主義はもちろん,イスラームのスーフィズム,キリスト教の神秘主義にも関心を広め,そこに至る道はさまざまであっても真理は一つであるという宗教観に達した。1875年以降,広く世に知られるようになり,ヴィヴェーカーナンダをはじめ多数の知識人を帰依者にもった。近代におけるヒンドゥー教復興の有力な潮流をつくった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラーマクリシュナ」の意味・わかりやすい解説

ラーマクリシュナ
Rāmakṛṣṇa

[生]1836.2.17/18. フーグリ,カマルプクル
[没]1886.8.16. カルカッタ
インドの宗教家。本名 Gadādhar Chattopadhyaya。すべての宗教が帰する真理は一つであることを唱え,宗教の本質は教義のうちにあるのではなくて愛情をもって人々に奉仕することのうちにあると説いた改革的宗教家。ベンガルの貧しいバラモンの家に生れ,17歳のとき父を失い,兄が長老となったヒンドゥー教寺院で兄の助手となったのち,トータープリという遊行者の弟子となり,ラーマクリシュナと改名して行者の生活に入った。 1871年独自の体験に基づく論理を完成し,社会的実践に身を投じた。特にビベーカーナンダが彼を訪れ,彼の弟子となったことは彼の宗教を全世界に伝播させる契機となった。

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百科事典マイペディア 「ラーマクリシュナ」の意味・わかりやすい解説

ラーマクリシュナ

インドの神秘主義的宗教家。広範な修行・修学と見神体験から,あらゆる宗教において神へ至る道が同一であることを主張し,近代ヒンドゥー教の普遍主義を基礎づけた。ビベーカーナンダはその高弟。語録《大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉》5巻がある。

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367日誕生日大事典 「ラーマクリシュナ」の解説

ラーマクリシュナ

生年月日:1834年2月20日
インドの宗教家
1886年没

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