近代インドの卓越した宗教家。俗名ナレーンドラナート・ダッタNarendranāth Datta。カルカッタのヒンドゥー上位カースト(カヤスタ)の家系に生まれる。父はカルカッタ高等裁判所の豊かな弁護士で近代的思考の持主,母は息子をシバ神の恩寵によって授かったと信じるほど敬虔なヒンドゥー教の信者であった。彼は英語による近代教育を受け,1884年文学士(カルカッタ大学)となり,さらに当時の知識人の通例に従い法学を修め所定の課程を終えたが,最終試験は受けなかった。在学中から,当時の知識青年層に広くみられたように,ブラフマ・サマージの影響を受けたが,直接神を見たいという彼の願望は満たされなかった。
こうした彼の願望にこたえたのはラーマクリシュナであった。ラーマクリシュナとの出会いは1882年のことであった(ブラフマ・サマージ会員のラーマクリシュナ詣では流行であった)が,近代合理思想を身につけた彼は,伝統的聖者の言動を厳しく吟味したのちに,その指導を受け入れ,86年究極の境地に到達したといわれる。1884年の父の死後,経済的にも精神的にも試練が続いていた頃である。86年ラーマクリシュナは後事を彼に託して死去。彼は出家してビベーカーナンダを名のるとともに,兄弟弟子とはかって修道団を結成。88年から93年にかけてインド各地を遍歴。93年南インドの共鳴者の資金援助を受けて,シカゴで開催された世界宗教会議に出席。アメリカに赴く途上,日本に立ち寄り,その美しさと活力に注目している。世界宗教会議における彼の演説は真の宗教を体現するヒンドゥー教の卓越性を聴衆に印象づけるとともに,彼を一躍世界的著名人の座に据えた。97年に帰国するまで欧米各地を講演し成功を収めた。97年にはラーマクリシュナ・ミッションを創設,翌年にはカルカッタ近郊のベルールに修道院を設立。1899-1900年には再び欧米を歴訪した。1902年ベルールで死去。
彼は近代インドのヒンドゥー教の復興運動の完成者であるばかりでなく,社会奉仕を強調し,インドの覚醒を促し,インド民族運動にも多大の影響を与えた。その思想の特徴は,インドだけが東洋の精神性と西洋の物質的進歩を統合しうる可能性をもっていると強調する点にあった。なお,1902年インドに渡った岡倉天心はベルールにビベーカーナンダを訪ね,ともにボードガヤーを巡遊,東洋宗教会議の開催について話しあうなど,親交を結んだ。
執筆者:臼田 雅之
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近代インドの宗教思想家。本名ナレーンドラナート・ダッタNarendranāth Datta。カルカッタ(現、コルカタ)のクシャトリヤの名門に生まれる。カルカッタの大学で近代的・西洋的教育を受けたが、1882年にラーマクリシュナと出会い、彼に師事した。師の死後(1886)は、その教えの布教に努めた。
1893年、アメリカのシカゴで開催された世界宗教会議に、南インドのヒンドゥー教の代表者として出席、あらゆる宗教が帰一することを主張して好評を博した。これを機縁に彼の世界的な伝道活動が始まった。1896年には彼はアメリカのニューヨークにベーダーンタ協会を設立し、翌1897年にはインドにラーマクリシュナ・ミッションを創設した。1898年から1900年にかけてはアメリカおよびヨーロッパの各地を伝道のために遊歴した。1902年、39歳の若さでインドのカルカッタ付近のベルールの僧院で没した。
彼の生涯の活動は、ラーマクリシュナが神秘体験によって獲得したベーダーンタ哲学の不二一元(ふにいちげん)論の思想を、人々の間に広めることであった。不二一元論によって諸宗教の対立が解消されるというのが彼の主張であった。また、奉仕の活動こそが宗教修行の原点であるとして、病院の設立や教育活動を推進した。主著に『カルマ・ヨーガ』がある。
[増原良彦 2018年5月21日]
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