日本大百科全書(ニッポニカ) 「リートフェルト」の意味・わかりやすい解説
リートフェルト
りーとふぇると
Gerrit Thomas Rietveld
(1888―1964)
オランダの建築家、デザイナー。ユトレヒト生まれ。家具職人の家庭に生まれ、11歳のころより父親が営む工房に出入りして家具デザインの基礎を学ぶ。宝石商のもとで学んだり建築学の夜間授業を受けた時期を経て、1911年に独立した。転機が訪れたのは1917年、ユトレヒトに工房を開いてからであった。この年から翌年にかけて、後年リートフェルトの代名詞となる「レッド/ブルーチェア」を制作。同作品が1919年に発刊されたデ・ステイルの機関誌で大きく紹介されたことがきっかけで、この芸術運動に参画することになった。
デ・ステイルの運動は、生活空間と芸術をいかに融合させるかが大きなテーマの一つであり、もともと実用的な家具デザイナーであったリートフェルトは、その主張に大きな共感を寄せた。その後リートフェルトは、デ・ステイルの運動理念にのっとって多くの家具デザインやインテリア・デザインを手がける。なかでも1924年のシュレーダー邸(ユトレヒト。2000年に世界遺産に登録)と、1927年以降に制作されたメズ&カンパニー製のファイバー家具は傑作として知られている。れんが造りと木造の混構造、幾何学的な空間構成、白、黒、赤、黄の整然とした配色などの特徴をもった前者は、運動の中心的創設者であったドースブルフの唱えた「エレメンタリズム」の影響を独自に消化しながら、作品全体のうちに純粋な抽象性を実現した作品としてデ・ステイルの代表作との評価を獲得した。
この成功によって、以後リートフェルトは活動の主舞台を建築へと移行する。ワッセナーのロメン邸(1925)、ユトレヒトのショーファーの家(1927~1928)、ユトレヒトのテラスハウス(1931~1932)などが代表作で、1928年にはCIAM(シアム)(近代建築国際会議)にも加盟した。理論家ではなかったため、自作についてあまり語ることはなかったが、理論的ないさかいの絶えなかったデ・ステイルのグループのなかでは例外的に、ドースブルフと生涯にわたって良好な関係を保った。1932年のデ・ステイルの終焉(しゅうえん)以後はふたたび家具デザインにも重きを置くようになり、1942年アルミ・チェアをデザインし、1957年に曲線のメタル・チェア・シリーズを制作。さらに晩年には、木を使った幾何学的な形のステルマン・チェアをデザインするなど、生涯を通じて旺盛な制作活動を行った。晩年の1954年には、ベネチア・ビエンナーレのオランダ館の設計も手がけている。
[暮沢剛巳]
『南泰裕著『住居はいかに可能か――極限都市の住居論』(2002・東京大学出版会)』▽『「デ・ステイル」(カタログ。1997・セゾン美術館)』