旧ソ連の芸術学者、文芸批評家、劇作家、政治家。ポルタワ市の進歩的な官吏の家に生まれる。キエフ(キーウ)中学卒業後「革命の詩人、革命の哲学者」を志して、1894年チューリヒ大学へ留学。経験批判論の権威アベナリウス教授のもとで実証哲学と自然科学を学ぶと同時に、スイスに亡命中のプレハーノフからもマルクス主義と文学・芸術理論について教えを受ける。そのため彼の前期の哲学にはマルクス主義を実証主義で折衷しようとする傾向が生じた。1898年ロシアへ帰り、革命運動に身を投じたが逮捕され、3年余の流刑となる。その間に書き上げた論文「実証美学概論」(1904年。1923年「実証美学の基礎」と改題)、「マルクス主義と美学・芸術についての対話」(1905)などで文学・思想界から注目を浴びた。1904年末、レーニンの要請を受けボリシェビキの機関紙編集局員となる。第一次ロシア革命敗北後、西欧へ亡命、その当時発表した論文「革命と芸術について」(1906)、「社会民主主義芸術の創造の課題」(1907)で、「ボリシェビキのもっとも才能豊かな評論家」と評価された。しかしストルイピンの反動期にボグダーノフらと「フペリョート」派に移り、著書『宗教と社会主義』(1908~1911)でいわゆる「建神主義」を唱えたため、レーニンから厳しく批判される。やがて自己の哲学上の誤りを克服、1917年春ロシアへ帰り、ボリシェビキに復帰。十月革命の勝利直後、彼はソビエト政府の教育人民委員(文相)に選出され、1929年までの12年間その地位にあって、非識字者の解消、ロシア語アルファベットの簡略化と新「正書法」の施行、新教育制度の基礎づくり、文化財の保護、保守的または非政治主義的な学者・文化人・作家らの庇護(ひご)に尽力した。芸術理論家および文芸批評家としては、ロシアの古典的作家たちを論じた『文学的シルエット』(1923)や、モスクワ大学、スベドロフ大学で行った講義をまとめた『西欧文学史』(1924)など130冊近い著書、1500編に上る長短の論文をもってソ連の文学・芸術運動を指導し、ネップ時代ののちには「芸術開花の黄金時代」を迎えるに至った。劇作家としては、『オリバー・クロムウエル』(1920)、『解放されたドン・キホーテ』(1923)など30編余りの戯曲を書き、映画シナリオにも筆を染め、数多くの映画・演劇論を残した。スターリン時代に入ると彼の活動はしだいに圧迫を受け、1933年、スペイン大使を命ぜられるが、その赴任の途中フランスで客死した。スターリン批判後、彼の仕事は積極的に再評価された。
[箕浦達二]
『ルナチャールスキイ著、昇曙夢訳『マルクス主義芸術論』(1947・社会書房)』▽『A・ルナチャルスキー著、原暉之訳『革命のシルエット』(1973・筑摩書房)』
ロシア・ソ連邦の革命家,政治家,文筆家。ポルタワの官吏の家に生まれ,チューリヒ大学留学中の1895年,社会民主労働党員となる。逮捕・流刑ののち1903年亡命,美学・哲学研究に従事しつつ党活動に参加した。05年の革命時まではボリシェビキの中心メンバーであったが,やがてレーニンと対立,第1次世界大戦中からトロツキーと行動を共にし,二月革命後ペテルブルグ市会の重要人物,扇動家として活躍した。十月革命とともにソビエト政府教育人民委員となり,29年まで在職,文化についての広い理解に立ちつつ新文化建設の指導的役割を担った。革命と文化の関係を中心に多数の著作を残す。
執筆者:和田 あき子
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…同規約では,〈社会主義リアリズム〉とは,〈現実をその革命的発展において,真実に,歴史的具体性をもって描く〉方法であり,その際,〈現実の芸術的描写の真実さと歴史的具体性とは,勤労者を社会主義の精神において思想的に改造し教育する課題と結びつかなければならない〉とされた。この定式は,1932年4月,文学団体再編成についての共産党中央委員会決議後,作家同盟準備委員会でのゴーリキー,ルナチャルスキー,キルポーチンValerii Yakovlevich Kirpotin(1898‐1980),ファジェーエフらの討論を経てまとめられたもので,討論の過程では,社会主義リアリズムとは,〈社会主義が現実化した時代のリアリズムである〉,〈19世紀ロシア文学の方法とされた“批判的リアリズム”が,現実の欠陥,矛盾をあばきながら,その批判を未来への明るい展望と結びつけられなかったのとは異なり,革命的に発展する現実そのものの中に未来社会への歴史的必然性を見いだす新しい質のリアリズムである〉,その意味でこれは〈革命的ロマンティシズムをも内包する〉と強調された。実作面でこの方法に道を開いた作品としては,ゴーリキーの諸作品,とくに《母》(1906),ファジェーエフの《壊滅》(1927),N.A.オストロフスキーの《鋼鉄はいかに鍛えられたか》(1932‐34)などが挙げられた。…
…そして大手の劇団,劇場にはある程度の自治権を認めながら,1919年から20年にかけて徐々に劇団,劇場の国有化を進めた。新事態への演劇人の反応はさまざまで,旧帝室劇場群は社会主義政権への反発から大半が休業に踏み切り,文教人民委員ルナチャルスキーの説得工作でしぶしぶ仕事を再開した。モスクワ芸術座も似たようなもので,これらの劇団は20年代半ばまではあまり活躍しない。…
※「ルナチャルスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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