帝政ロシアの政治家。名門貴族出身でペテルブルグ大学自然学部を卒業し,1884年から内務省に勤務。1902年グロドノ県知事となり,03年2月から06年4月までサラトフ県知事。これら西部諸県での活動は,政府の目をひき,かつ彼の後の政策に大きな影響を与えた。06年4月ゴレムイキン内閣の内相に就任し,ロシア最初の国会運営で手腕をみせ,同年6月,解散と同時に首相となった。07年3月に召集された第2国会が急進的であったので,6月3日,彼は国会を解散させ,同時に選挙法を改悪して,いわゆる6・3体制を確立して1905年の革命にとどめをさした。このようにして一連の改革をくわだてるなかで11年9月,キエフで観劇中に警察のスパイであるボグロフに射殺された。
彼は〈まずは平静を,しかる後に改革を〉を基本方針に諸政策の実施をはかった。〈平静〉を確保するために,戒厳令,軍事法廷,行政流刑等が用いられ,〈ストルイピンのネクタイ〉と呼ばれたように,多数が絞首刑に処せられた。〈改革〉はユダヤ人の権利拡大,宗教改革,言論・出版・結社および集会の自由,県・郡行政組織の再編をともなう地方自治の近代化,ゼムストボの権限強化,地方裁判所の改革,中央行政組織の改善,そして農業改革など多方面に及んだ。これらツァーリズムの枠内での近代化の諸構想は,西部諸県知事時代に基本的に打ち出されていたが,1905年革命後,首相としての彼から提案されたとき,それらは革命による混乱から社会を立て直すべき役割をも担うところとなった。例えば農業改革は06年11月9日の勅令と11年5月の土地整理法により農民の農村共同体からの脱退,個人的土地所有の確認,個人経営組織(フートルとオートルプ)の創設,移住の奨励をめざすものであったが,それは農業問題解決には個人農をつくり出すことが不可欠であるという彼の年来の考えと,農業改革の結果生まれるはずの富農層が革命で動揺したツァーリズムを新たに支えるであろうとする情勢分析との産物であった。ところがこれら構想の多くは,まず農民を中心とする人民の抵抗(大半の農民は共同体を離脱することを拒んだ)に出あい,さらに国会内諸党派,国家評議会,そしてツァーリがそれぞれに抱いていた革命後の社会構想と衝突することで挫折した。
執筆者:高田 和夫
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ロシアの政治家。富裕な地主貴族の家に生まれる。ペテルブルグ大学卒業後、内務省に勤務。1906年4月内相、同年7月首相兼内相となった。革命運動の弾圧に努め、多くのテロリストを処刑したところから、当時絞首台の縄は「ストルイピンのネクタイ」とよばれるようになった。他方、革命勢力に対抗するためにはロシア社会の改革、とりわけ農業の改革が不可欠であると考え、1906年から1911年にかけて、一連の土地改革に関する法律によって農民の自由意志による共同体からの離脱と、耕地の整理・統合を奨励した。彼は農業の資本主義化を目ざし、土地を共同体的所有から個人的所有に改めることによって、農民層を革命の防波堤にし、ツァーリズムの支柱にしようと考えた。この結果、1916年までに全ヨーロッパ・ロシアの農家の約4分の1が共同体から離脱し、そのなかの比較的富裕な農民は資本主義的経営を行って、ロシアの穀物生産と輸出を増大させた。しかし他方では、その結果、農民が富農と貧農とに階層分化し、従来の地主貴族と農民との対立に、新たに富農と貧農との対立が付け加わることとなった。1911年キエフ(現、キーウ)で狙撃(そげき)され、死去。
[外川継男]
『保田孝一著『ロシア革命とミール共同体』(1971・御茶の水書房)』
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1862~1911
ロシアの政治家。名門貴族の出身。ペテルブルク帝大卒業後,官途につき,サラトフ県知事を務めたのち,1906年4月に内相,7月に首相(在任1906~11)となった。1905年革命後の再建の主役として,共同体解体の土地改革を軸とする内政改革を推し進めた。しかし,改革は難航し,皇帝・右翼地主派との対立が深まり,ついには警察のスパイに暗殺された。
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…第1国会がたった70日で解散されたのは,国会が私有地の強制収用を問題にしたからであった。明治初年に身分制が廃止され,農地の私的所有権が確立された日本とは異なり,ロシアでは農村共同体(ミール)を解体し,小分割地農民を創出することが1907年に始まるストルイピンの改革の課題であり,ロシア社会のブルジョア的改革の第一歩であった。 ツァーリズムは第2国会をも解散し,選挙法をさらに改悪し,第3国会と第4国会の選挙を挙行するが,その結果,カデットより右派のオクチャブリストが中心勢力になり,国会議長もこの党から出た。…
…181人の議員たちは,ビボルグに集まって反政府闘争を呼びかけるアピールを発したが,バルチック艦隊の水兵が反乱をおこしただけであった。国会解散とともに首相を兼務するに至った内相ストルイピンが以後精力的に活動し,共同体の解体をねらった改革を推進して,1907年6月3日第2国会解散と同時に,地主勢力を優遇する新国会選挙法を公布し,国会を政府に協力的なものに強引につくりかえた(〈6月3日のクーデタ〉)。政治は以後完全に常態化する。…
…しかし19世紀に入ると農奴の人口比は低下し(1858年にヨーロッパ・ロシア総人口の38%),法的にも領主権に制限が加えられ,農奴解放への模索が続き,1861年これが実現した。 19世紀後半には人口増加で農民の土地不足が深刻化し,農業危機がおこり,20世紀に入ってストルイピンの農業改革が行われた。農村の人口過剰はシベリアなどの辺境や国外への大量の移住のほか,農村工業と出稼ぎによってもある程度緩和された。…
※「ストルイピン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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