イタリア最大の詩人のひとり。アドリア海を遠望する丘陵地帯の町レカナーティに,伯爵家の長男として生まれた。母親も侯爵家の出身で,幼いころから厳しいしつけを受け,政治的にも文化的にも保守性の強い環境に育った。最初の教育は父親や聖職者たちから受けたが,刻苦勉励して異常なまでに早熟な才能をあらわし,14歳のころには教師を必要としなくなり,膨大な蔵書を収めた父親の書斎に引きこもって,もっぱら古典文献の読破に努めた。10歳から18歳ころまでの〈気違いじみた必死の勉強〉によって,英語,ドイツ語,フランス語の近代語はもちろん,古代ギリシア語,ラテン語,ヘブライ語などを独習し,該博な知識を身につけたものの,この間にあまり陽光の入らない部屋のなかで生活したために発育不全となり,身長が伸びず,佝僂(くる)となって,はなはだしく健康を害してしまった。そのころヘシオドスの翻訳,モスコスの牧歌,《オデュッセイア》や《アエネーイス》の部分訳などを試み,古典的な文体を身につけた。しかし,初めは必ずしも文学を志したわけでなく,博識を駆使して《天文学史》(1813),《古代人に流布した誤謬について》(1815)など,啓蒙主義的な論文や,悲劇の習作,古典文学論などを著した。
しかしながら,1815年から16年にかけて,言語にまつわる美にめざめ,一種の宗教的な体験のうちに,それまでの知識を振り捨てるようにして,詩の世界へ踏みこんだ。詩編《死に近づく賛歌》(1816執筆)はその意味で詩人レオパルディの誕生を画した文学的回心の作品である。このなかでレオパルディはいうなればダンテとペトラルカの詩法の融合を企て,一種の宗教的な信条から発した詩心を吐露している。しかし,彼の詩才に対して周囲は冷ややかな態度で接し,両親の無理解と屈辱的な経済援助のうちに詩人は呻吟して暮らした。すべての愛する者たちの心から離れ,まったくの孤独のうちに詩作を続けたが,21歳のとき眼病にかかり読書の道を絶たれるなど,不幸はさらにつぎつぎと襲いかかってきた。文学史上しばしば世界最高の厭世詩人と呼ばれるように,レオパルディの詩は暗澹たるペシミズムに塗りこめられている。しかし,彼の詩には本来二つの異なる傾向が共存していた。一つは詩編《イタリアに》(1818),《ダンテの碑の上で》(1819),《アンジェロ・マーイに》(1820)などのように,同時代の政治的かつ文化的要請に応えようとする傾向で,その限りでは近代イタリア国家統一へと収斂していくロマン主義文学と軌を一にしている。いま一つは詩編《月に寄せて》(1819),《無窮》(1819),《祭りの日の夕べ》(1820)などのように,深い悲しみとあらわにされた心の動きをそのままに伝える一連の抒情詩で,そこには個人的な悲しみの感情を超えて,世界そのものが悲哀の存在として描き出されている。《サッフォーの最後の歌》(1822),《シルビアに寄せて》(1828),また《月は傾く》(1836,ただし最後の6行は詩人の死の直前に口述されたものといわれる)など,透徹した悲哀の詩編は,いずれも詩集《カンティCanti》(初版1831,再版1835)に収められている。
散文作品としては,対話形式をとった26の短編から成る《教訓的小話集》(1827)があり,これはまさに絶望の哲学の書で,悲劇と喜劇が表裏一体となって展開する。また,生誕100年を記念して出版された膨大な手記《随想集》7巻(1898-1900)は彼を19世紀イタリア最大の思想家たらしめている。レオパルディは彼の詩の母体であると同時に苦しみの土地であった故郷レカナーティを24歳のとき(1822)に離れ,以後はローマ,ミラノ,ボローニャ,フィレンツェなどを転々とし,晩年(1833)になってナポリの亡命者アントニオ・ラニエリの知遇を得,その妹パオリーナの手厚い看護を受けながら,同地で病没した。
執筆者:河島 英昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリアの詩人。アドリア海を遠くに望み見る丘陵地帯の町マルケ州レカナーティに、6月29日、伯爵家の長男として生まれ、保守性の強い環境に育った。幼いころから聖職者の家庭教師について学んでいたが、14歳のときには、もはや教師を必要とせず、古色蒼然(そうぜん)たる父親の書斎に引きこもり、豊富な蔵書に埋もれながら、もっぱら古典文献の研究に没頭した。このころの関心は、文学よりもむしろ該博な知識を身につけることへの喜びに向けられていて、『天文学史』(1813)や『古代人に流布した誤謬(ごびゅう)について』(1815)などの論文に結実した。17歳のときには、英・仏・独の近代語はもちろん、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語を独学で習得していた。この時期(1808~16ころ)の「気違いじみた必死の勉強」によって、膨大な知識を身につけはしたが、陽光のあまり入らない部屋の中で生活していたために発育不全となり、身長が伸びずにくる病となって健康を著しく害し、夭折(ようせつ)を決定的に用意してしまった。当時、すでに試みていた、ヘシオドスの翻訳や、モスコスの牧歌の訳出、また『オデュッセイア』や『アエネイス』の部分訳などは、彼の端正で古典的な文体を生み出すもとになった。そして1815~16年、言語にまつわる美に目覚め、そのときの宗教的な体験から、むしろそれまでの自分の知識を振り捨てるようにして、詩の世界へと踏み込んでいった。
けれども、彼の詩才に対する両親の無理解と屈辱的な経済援助とから、詩への厭世(えんせい)観は募っていった。加えて、21歳のとき眼病にかかって読書の道を絶たれるなど、不幸は次々に襲いかかってきた。しばしば、世界最高の厭世詩人とよばれるように、彼の詩は暗澹(あんたん)たるペシミズムに塗り込められているが、その悲哀は個人的な感情を超えて、世界そのものを悲しみのなかに描き出している。それは「死に近づく賛歌」(1816)に始まり、「無窮」(1819)、「孤独の雀(すずめ)」(1829)などを経て、死の2時間前に書かれたという「月は傾く」(1837)に至るまでの詩編に書き込まれている。散文作品としては、26の短編からなる『教訓的小話集』(1826)、また生誕100年を記念して出版された膨大な手記『随想集』七巻(1898~1900)がある。後者は15年間にわたる詩人の読書と、回想と、自己の魂との対話とを書き留めたもので、彼を19世紀最大の思想家たらしめている。また前者の詩や散文が、ロマン主義文学最大の遺産として、いや、ロマン主義の枠を踏み超え、ダンテ、ペトラルカ、タッソに続く、大詩人レオパルディとして、後世のイタリア文学に与えた影響は甚だ大きい。
1822年に、ようやく父親に許されて、詩人は桎梏(しっこく)の故郷レカナーティを離れることができた。その後はローマ、ミラノ、ボローニャ、フィレンツェ、ピサなどを転々としたが、安住の地を得ることはなかった。ただ晩年、ナポリの亡命者アントーニオ・ラニエーリと知り合い、真の友情を得て、その妹パオリーナの献身的な看病を受け、37年の6月14日、ナポリで没した。主要作品は詩集『カンティ』(初版1831、再版決定版1835)に収める。
なお、日本文学にもっとも早くレオパルディの名前を知らせたものの一つに、夏目漱石(そうせき)の『虞美人草(ぐびじんそう)』のなかの言及がある。
[河島英昭]
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…《コンチリアトーレ(調停者)》誌に寄稿した愛国者たちは,たとえばS.ペリコやG.ベルシェのごとく,自由主義思想のゆえに投獄されたり,亡命を余儀なくされた。しかしながら,ロマン主義最大の文学者はG.レオパルディとマンゾーニであった。レオパルディは《カンティ》(初版1831)のなかに愛国的な長詩を若干収めているが,本領は抒情詩にあり,古代ギリシアから,ラテン,イタリアまでのあらゆる詩法に通じ,それらを超克した簡潔な自由詩型を編みだし,悲劇的な感情を歌いあげた。…
…近代イタリアの大詩人G.レオパルディの詩集。初版は1831年にフィレンツェで,第2版は35年にナポリで刊行された。…
… その他の国々では,ロマン主義は多くの場合国家統一へと向かうナショナリズムの進展と並行し,国民的な意識の高揚を目ざす国民文学運動として展開された。例えば,イタリアではリソルジメントと呼応しマンゾーニやレオパルディが文学運動を推進し,あるいはロシアではプーシキンやレールモントフらが,フランス文学の影響を排してロシア固有の文学の創造を目ざす国民文学運動としてのロマン主義を展開した。 この汎ヨーロッパ的な文芸運動も19世紀中ごろにはほぼ終わり,リアリズム等の旗印のもとに各国の社会状況に即した文芸思潮が登場した。…
※「レオパルディ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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