アメリカ合衆国第40代大統領(在任1981~1989)。イリノイ州タンピコに靴セールスマンの次男として生まれる。同州ユーレカ大学を卒業後、地方局のスポーツ・アナウンサーとなる。1937年ハリウッド入りし、約50本に主役を演じたが「B級映画のエロール・フリン」(エロール・フリンErrol Flynn(1909―1959)は1940年代に活躍した美男活劇スター)といわれ、わずかな代表作に『キングズ・ロウ』(1941)がある。民主党支持で大統領F・D・ルーズベルトを尊敬したが、1947年から計8年間映画俳優協会会長を務め、映画界の赤狩りに協力するなかで右傾化し、さらにゼネラル・エレクトリック社と契約、テレビ出演と全国講演により資本主義の福音(ふくいん)を説き、1962年には共和党員となる。演説と演技に優れ、1964年の大統領選でゴールドウォーター候補への応援演説が評判となり、2年後にカリフォルニア州知事に当選。1970年に再選され、州財政を黒字に変えた。1976年には現職の大統領フォードと共和党の指名を争って惜敗したが、1980年の大統領選ではイラン人質事件が象徴する国威の低落に不満な国民の支持を得て、現職の大統領カーターを大差で破り当選した。「強くて豊かなアメリカ」をスローガンに、対ソ強硬路線を唱え軍備を拡大する一方で、社会福祉支出を抑制し、諸規制緩和と大幅な減税を行うなど「レーガン革命」を成し遂げ1984年の大統領選では民主党候補の前副大統領モンデールWalter Frederick Mondale(1928―2021)を破って再選された。
しかし「レーガノミックス」とよばれる一連の経済政策は国家財政の大赤字を招き、さらに国際収支の逆調でアメリカは「双子の赤字」に苦しみ、1985年には債務国に転落した。国威発揚のため、レバノン出兵、リビア爆撃、グレナダ侵攻、またニカラグアの反政府勢力(コントラ)を支持するなど強硬策を連発して、第三世界の不信を招くことになった。
史上最高齢の大統領でありながら、暗殺未遂事件による重傷と癌(がん)の手術を乗り越え、その人柄で国民の支持をつなぎ留めたが、1986年10月、直属の部下がイランに武器を秘密売却、その代金をコントラ勢力に横流ししていた事実が発覚(イラン・コントラ事件)、管理能力と責任を議会から問われた。本来ならば弾劾に値する失政といわれたが、共和党多数の議会に救われた。名誉回復をねらって1987年末、当時のソ連書記長ゴルバチョフとの間で中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)を調印、さらに戦略核兵器の半減を目ざしたが、一方でSDI(戦略防衛構想=スターウォーズ)の実現にも執着した。この間の一般軍拡競争によってソ連経済を弱体化させ、のちのソ連解体と冷戦終結に至る路線をつくりあげたともいえる。1989年任期満了により辞任。1994年には自らアルツハイマー病であることを公表した。
[袖井林二郎]
『尾崎浩訳『わがアメリカンドリーム――レーガン回想録』(1993・読売新聞社)』▽『仲晃著『レーガンのアメリカ』(1980・日刊工業新聞社)』
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1911~2004
アメリカ第40代大統領(在任1981~89)。共和党員。映画俳優やタレントとして活動したのち,カリフォルニア州知事を2期8年務め,その間共和党保守派の有力政治家として注目を集め,1980年に大統領に当選。当初軍拡と激しいソ連非難で対ソ強硬外交を展開したが,政権2期目に対ソ交渉に積極的な姿勢に転じ,冷戦の終結に重要な役割を果たした。内政では「小さな政府」を標榜し,大幅な減税を断行。経済は回復に向かったが,財政赤字が急増し,貿易収支の赤字とあいまって,アメリカは債務国に転落した。国民の人気は終始高く,「偉大なコミュニケーター」と呼ばれた。
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