アメリカの東南アジア研究者、ナショナリズム研究者。アイルランド人の母とイギリス人の父のもと、中国の雲南省昆明に生まれる。1941年の夏、家族と中国を出るが、第二次世界大戦中のためアメリカ、カリフォルニアへ渡り、1945年にアイルランドへ移る。1957年にイギリスのケンブリッジ大学で古典を学んだ後、アメリカのコーネル大学でインドネシア研究を専攻。その後同大学の政治学・アジア研究教授、東南アジア研究所所長、名誉教授。
アジア・アフリカで脱植民地化の動きが始まった1960年代から日本とオランダ領東インド(現インドネシア)との関係、とくに日本軍による1942年から1945年のインドネシア軍政に関する研究を始める。その後1945~1949年のインドネシア革命について研究を進めるために1961年にジャカルタへ行き、フィールドワークを開始。
1965年の「九月三〇日事件」(陸軍首脳が拉致殺害された事件)をインドネシア共産党のクーデターとするスハルト政権側の公式見解を批判し、「不平をもつ陸軍若手将校の反乱であり、スハルトらは共産党潰しのためにこの事件を利用した」と結論づけたため、インドネシア当局の激しい反発を受け、1972年にインドネシアから追放された。アンダーソンは、この九月三〇日事件を転機としてインドネシアのナショナリズムが変質していく過程を、世界史的な枠組みのなかでとらえ直す。その後もエーリッヒ・アウエルバハ、ワルター・ベンヤミン、ビクター・ターナーの深い影響のもと、言語、文化、メディア、表象を通してナショナリズムについて考察し、『想像の共同体』Imagined Communities(1983)を発表。同書において国民とは社会的、政治的な実体ではなくて、「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」であるという議論を展開、国民国家の分析に新たな地平を拓いた。とくに近代小説の成立や出版資本主義による俗語の流布がナショナリズムを構成する契機となったと指摘した。アンダーソンは、近代社会への移行期に登場した俗語革命(それまで俗語でしかなかった各地方の言語がラテン語等の公式言語にとってかわったこと)が国家語の成立に結びつき、さらに近代の「均質で空虚な時間」(ベンヤミン)に支配された国家語による新聞や小説によって、ばらばらな個人が「同時代性」を共有し、国民という集団の想像的なアイデンティティが形成されてきた点を考察した。また、こうした言語中心ナショナリズムだけでなく、同時に南北アメリカのクレオール共同体でのナショナリズムについても検討している。アンダーソンが提唱した「想像の共同体」は、多くの学問領域を横断して、国民国家、ナショナリズム、グローバリゼーション、ディアスポラ(もともとはユダヤ人の離散を示す言葉だが、1980年代以降の文化研究、社会理論、ポスト・コロニアリズムの文脈において新たな意味を獲得している。自らの起源(ルーツ)からの離脱、あるいは流浪の身にありながら、依然として自らのルーツに文化的、政治的、倫理的な強い結びつきをもち、それによって社会的連帯を志向する人々およびその概念)等を論じるうえでの重要なキーワードになっている。
ほかにも、『革命時代のジャワ』Java in a Time of Revolution(1972)、『鏡のなかで』In the Mirror; Literature and Politics in Siam in the American Era(1985)、『言葉と権力』Language and Power(1990)等、インドネシア、タイ研究に関する多数の著書がある。『言葉と権力』は権力、言語、意識の三部からなり、30年にわたるインドネシア研究の総括としてインドネシアにおけるナショナリズムの成立と変質が探求されている。
[清水知子]
『中島成久訳『言葉と権力――インドネシアの政治文化探求』(1995・日本エディタースクール出版部)』▽『白石さや・白石隆訳『想像の共同体』(1997・NTT出版)』▽『白石隆著「『最後の波』のあとに」(『岩波講座現代社会学24 民族・国家・エスニシティ』所収・1996・岩波書店)』▽『アーネスト・ゲルナー著、加藤節監訳『民族とナショナリズム』(2000・岩波書店)』▽『姜尚中著『ナショナリズム』(2001・岩波書店)』▽『E・J・ホブズボーム著、浜林正夫ほか訳『ナショナリズムの歴史と現在』(2001・大月書店)』▽『大澤真幸編『ナショナリズム論の名著50』(2002・平凡社)』▽『ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健次郎編訳・久保哲司訳「歴史の概念について」(『ベンヤミン・コレクションⅠ』所収・ちくま学芸文庫)』▽『姜尚中・森巣博著『ナショナリズムの克服』(集英社新書)』
アメリカの小説家。9月13日、中西部オハイオ州の田舎(いなか)町で生まれる。貧しい少年時代を過ごし、成功の夢を抱いてシカゴに出る。広告会社の記者として活躍し、結婚後退職してオハイオで塗料の通信販売会社をおこし、社長となる。しかし、実業界で出世することのむなしさを痛感、その一方、創作意欲が高まり、30代のなかばで作家への転身を決意しシカゴへ赴き(のちに離婚)、「シカゴ・ルネサンス」とよばれる革新的な文芸運動の啓蒙(けいもう)を受ける。すでにオハイオで書き上げていた半自伝的な小説『ほら吹きマクファーソンの息子』(1916)を発表。これは、仕事と家族を捨てて「自己発見の旅」に上る実業家を主人公としたもので、模倣的な習作の域を出ない作品だったが、やがて、素朴な語り口ながら前衛的な心理表現を用いて、田舎町の清教主義的な因襲道徳の支配下にある孤独な人々のグロテスクな内面生活を描いた異色の短編集『ワインズバーグ・オハイオ』(1919)を著し、文壇に波紋を投じた。これによってアメリカの新しい文学の担い手と目され、後輩のヘミングウェイやフォークナーにも多大の影響を及ぼした。続いて、近代工業化の波に襲われた中西部の農民や手工業者の混乱した生きざまを照明した『貧乏白人』(1920)、また、不毛な大都市シカゴを蒸発し、黒人の健康な笑いを求めて南部へ下る文明人の意識の流れをJ・ジョイス風のタッチで表現した『黒い笑い』(1925)などで声価を高めた。
しかし、文学上の実験に深入りしすぎたうえ、晩年にはプロレタリア小説にも筆を染めて『欲望の彼方』(1932)を公にしたが、社会問題が感覚的な次元でしか把握されておらず、構成上の乱れもあり失敗に終わる。
自らを「物語作者(ストーリー・テラー)」とよぶアンダーソンは、長編小説よりも『卵の勝利』(1921)や『森の中の死』(1933)などの短編集に収められている小編(とくに思春期の少年を語り手とする物語)を得意とする。また、自伝的作品に『物語作者の物語』(1924)、『回想録』(1943)などがある。1941年3月8日没。
[小原広忠]
アンダーソンは『卵の勝利』(1921)、『馬と人間』(1923)、『森の中の死』(1933)の短編小説集を残したが、それぞれの一編「卵」「女になった男」「森の中の死」において、「彼は最高頂に達した」と、批評家アービング・ハウはいう。
これらの傑作に共通する特徴の第一は、主人公の語りである。アンダーソンは語りに特別な意味を求めていた。「毒プロット」といってプロットを否定する彼の、プロットにかわる一つのフォームこそ語りである。第二は、その語り手が一人称であることである。アンダーソンの自伝的特徴がここにも感じられる。第三は、主人公が少年であることで、これは開眼物語の可能性を意味する。第四は、動物の重要な役割であり、この三編には、鶏と馬と犬が登場する。これは、文明による汚染度の低いもの、自然、動物、子供、女性、黒人、弱者などに対する彼の愛情の現れを示す。第五はグロテスクである。人が卵にしてやられ、男が女になり、人が犬になぶられる。しかし、ここにいとしさがあり、美がある。
このような特徴をもつ短編小説集において、アンダーソンは一幅の絵として人生を描いた。ここに彼の本領がある。
[古平 隆]
アメリカのパフォーマンス・アーティスト。シカゴ生まれ。幼いころからバイオリン演奏を行った。1966年ニューヨークのバーナード・カレッジに入学し美術史を学んだ後、コロンビア大学大学院で彫刻を学び1972年に卒業。その後美術史の講師を務めるかたわら、美術評論などの活動も行うと同時にバイオリン演奏を伴ったパフォーマンスを始める。
1973年、ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックで行われた12時間におよぶ音楽と映像を使ったパフォーマンス『ヨシフ・スターリンの生活と時間』によりアンダーソンの名は広く知られるようになった。従来の劇場公演が、基本的に音楽と演劇、ダンスといった「ジャンル」に分かれていたのに対し、この作品はこうした垣根を取り払った「パフォーマンス」として注目を集めた。1950年代からニューヨークのアート・シーンでは、徐々にそうした脱ジャンル的な動きがあったが、視覚的な面や聴覚的な面、つまり、ビジュアルからサウンドまで文字どおり1人のアーティストがコントロールし、コーディネートしたという意味で、『ヨシフ・スターリンの生活と時間』は画期的だった。しかもこの時点でアンダーソンは弱冠23歳だった。以後、アンダーソンは、バイオリンを弾き、踊り、歌い、語り、演じ、という多様な「パフォーマンス」のスタイルを確立する。
そして1981年シングル「オー・スーパーマン」がイギリスのヒット・チャート2位になる。実際のパフォーマンスの場では、コンサートやショーを大きくはみだし、トータルな表現が練られるのが常だった。巨大なスクリーンに映し出されるスライドやフィルムをバックに、胸や四肢を叩(たた)くとさまざまな音がするドラム・スーツを着用、エレクトリック・バイオリンを奏(かな)で、テープ・ボウ・バイオリン(弓と弦の代わりに磁気テープと再生ヘッドを備えた電子バイオリン)でホール全体を宇宙空間に放り出すようなサウンドを響かせる。ストロボが点滅し、踊り、ボコーダーを通した声で、いくつもの言語で歌い、語る。テクノロジーを最大限に活用しつつも、アンダーソン自らが「そこ」にいて、音を発し、動いていることで身体性を強調する。ここでパフォーマンスに接する観客は、人間の身体がテクノロジーと共存し、共生していくさまを感じとる。
その後ニューヨークに拠点を移して活動を続け、バイオリン、自作の楽器、CG、舞踊、詩などさまざまな表現手段を用いて、視覚的な要素と音響的な要素をマルチに表現する彼女のパフォーマンスは世界的な人気を得た。
代表的なアルバムに『ビッグ・サイエンス』Big Science(1982)、『ミスター・ハートブレイク』『ユナイテッド・ステイツ・ライブ』United States Live(ともに1984)、『ストレンジ・エンジェルズ』Strange Angels(1989)、CD-ROM『パペット・モーテル』Puppet Motel(1995)などがある。『ブライト・レッド』(1994)は、ブライアン・イーノがプロデュース、舞踊家でパントマイム・アーティストのアート・リンゼーArto Lindsay(1953― )らも参加している。
その後制作されたCD‐ROM作品では、ライター、音楽家、パフォーマー、写真家をアンダーソンがひとりでこなしている。
[小沼純一]
アメリカの原子物理学者。ニューヨークに生まれ、1927年カリフォルニア工科大学を卒業、1930年同大学で学位取得後、1933年カリフォルニア工科大学助教授、1939年同大学教授になった。アメリカ原子物理学の基礎の建設者ミリカンのもとで、原子核構造の手掛りを与えるとして当時注目され始めていた宇宙線研究を開始、まず強磁場中の飛跡によって宇宙線粒子のエネルギーを測定するある種の霧箱装置を製作、それを使用して実際に宇宙線粒子のエネルギーが1億電子ボルト以上であることを確認した(1931)。翌1932年、多数撮影した宇宙線の飛跡の写真のなかから、ある点から正・負の帯電粒子が1対になって飛び出している像をみつけた。これが陽電子(ポジトロン)の発見である。一方の負の粒子は電子であるが、他方の正の粒子は陽子ではなく、ディラックが1928年に理論上その存在を予言していた陽電子であり、「電子対生成」とよばれるこの現象自体、相対性理論における物質とエネルギーの同等性の原理を実験的に証明するものであった。この陽電子発見の業績により1936年にノーベル物理学賞を受けた。そのほか、アメリカの物理学者ネッダーマイヤーSeth Henry Neddermeyer(1907―1988)と共同での宇宙線中の中間子の発見(1937)をはじめ、μ(ミュー)中間子の自然崩壊によって電子と2個のニュートリノが生成することを確かめる(1949)などの業績がある。
[宮下晋吉 2018年6月19日]
アメリカの物理学者。インディアナポリスに生まれる。1943年ハーバード大学を卒業したが、第二次世界大戦中のため、海軍研究所で電子物理学の応用技術の研究に従事した。終戦後、ハーバード大学に戻り、1949年バン・ブレックの指導のもとで博士号を取得、同年ベル研究所に入り1984年まで勤務した。その間、ケンブリッジ大学の客員教授を兼任、また1976年以降はプリンストン大学の教授を務めた。1952年(昭和27)フルブライト交換教授として来日している。
磁性、超伝導など固体物理学の基礎理論を研究し重要な業績を残した。不純物などによる無秩序なポテンシャル場における電子状態の局在性について研究し、「アンダーソン局在」「アンダーソン模型」の理論を提唱した。また超伝導、超流動の研究では「ジョセフソン効果」の実験的証明を行った。1977年「磁性と無秩序系の電子構造に関する理論的研究」により、バン・ブレック、イギリスの物理学者モットとともにノーベル物理学賞を受賞した。
[編集部]
スウェーデンの地質学者、考古学者。とくに第四紀地質学者として知られ、1906年にはスウェーデン地質調査所長となった。1914~1925年には北京(ペキン)地質調査所に派遣され、奉天省(現、遼寧(りょうねい)省)、河南(かなん)省、甘粛(かんしゅく)省の遺跡を調査し、周口店(しゅうこうてん)洞穴で北京原人骨を発見、また出土の土器中に彩色土器を発見、中国の新石器時代に、中央・西南アジアと文化交流のあったことを明確にし、オリエント古代文化の東漸(とうぜん)を確証した点で大きな功績をあげた。帰国後、1925年にストックホルムの極北古物博物館長やストックホルム大学講師を務め、1937年に再度中国に渡り、西康(せいこう)省(チベット東部と四川(しせん)省西部よりなる省。1955年廃止)の氷河やトンキン湾の遺跡の調査に従事した。著書に『中国遠古文化』An Early Chinese Culture(1923)、『黄土の子等(ら)』Children of the Yellow Earth(1934)、『中国人の先史時代研究』Researches into the Prehistory of the Chinese(1943)など多数がある。
[市川正巳]
アメリカの劇作家。巡回牧師を父としてペンシルベニア州に生まれる。中西部で教育を受けたのち、カリフォルニアで大学の教職につく。第一次世界大戦中に、平和主義を表明して教職、新聞の論説員の職を追われる。1918年ニューヨークに出て劇作を始め、『ホワイト・デザート』(1923)以来死の前年まで、主として社会的関心の強い38の戯曲を発表した。軍隊の内部から大戦の現実をあばいた出世作『栄光なんぞ』(1924・共作)以後、ピュリッツァー賞受賞の政治風刺劇『上院も下院も』(1933)、第二次大戦前後の反戦・反ナチ劇など、リアリズム劇を書く。その一方で彼が興味を向けたのは、現代の詩劇という問題であった。『エリザベス女王』(1930)、『スコットランドのメリー女王』(1933)の成功をきっかけとした一連の歴史劇をはじめ、第1回、第2回ニューヨーク劇評家賞受賞作『ウィンターセット』(1935)、『高台』(1937)などアメリカ社会の問題を扱った作品がある。これらの詩劇は、評論集『悲劇の本質・ほか』(1939刊)で展開した理想主義的演劇論とともに、彼のロマンチシズムの特徴が発揮されている。
[楠原偕子]
アメリカのSF作家。ペンシルベニア州生まれ。ミネソタ大学で物理学を専攻。SF作家として広く認められたのは人類進化テーマの『脳波』(1954)を発表してからで、これは彼の代表作の一つである。両親がスカンジナビア人であるせいで北欧の神話・伝説・歴史に造詣(ぞうけい)が深く、アマゾン伝説を下敷きにした『処女惑星』(1956)、14世紀の十字軍に取材した『天翔(か)ける十字軍』(1960)のようなSFを得意とし、またタイム・トラベル・テーマの作品も多く、破滅テーマの『審判の日』(1962)からハードSFの『アーバタール』(1978)まで手がける作域の広い多才な作家であった。
[厚木 淳]
『榎林哲訳『処女惑星』(創元推理文庫)』
アメリカのコントラルト歌手。フィラデルフィアの貧しい黒人家庭に生まれ、初め教会の聖歌隊で歌っていた。のちニューヨークで学び、1925年ニューヨーク・フィルハーモニック協会の声楽コンペティションで1位に入賞してコンサート・デビューに成功。大指揮者トスカニーニから「百年に一度の声」と激賞された深みのある声の持ち主で、1955年1月には黒人歌手として初めてメトロポリタン歌劇場に出演した。とくに黒人霊歌の歌唱は傑出していた。1953年訪日公演。1965年に引退。
[美山良夫]
アメリカの作曲家、指揮者。マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学時代にウォルター・ピストンほかに師事。教会オルガン奏者などを経て1935年からボストン・ポップスに編曲を提供。やがて自作管弦楽曲を発表して名声を得た。曲は短く、現代感覚と機知に富んでいる。『シンコペイテッド・クロック』(1948)と『ブルー・タンゴ』(1951)は1951年に大ヒットした。
[青木 啓]
アメリカ合衆国、インディアナ州中南部の商工業都市。人口5万9734(2000)。ホワイト川西岸、農業地帯に位置し、自動車部品、鉄鋼業が産業の中心をなす。1887年の天然ガス発見により工業が発展し、20世紀初頭の自動車工業がさらに都市の飛躍に大きく貢献した。有史前の塚で知られるマウンド州立公園があり、アンダーソン大学の所在地。
[作野和世]
1920年前後の,シカゴを中心として起こった新文学運動,いわゆる〈シカゴ・ルネサンス〉に大きなかかわりをもった小説家。オハイオ州のあまり裕福ではない家に生まれ,各地を転々としながら実業家を志し,30歳ころには一応の成功を収めるが,それから大きな〈回心〉を経験して,シカゴで作家生活に入った。作品は,《オハイオ州ワインズバーグ》(1919),《貧乏白人》(1920),《黒い笑い》(1925)などの小説,《卵の勝利》(1921)などの短編集,《物語作者の物語》(1924)などの自伝的作品,《中西部アメリカの歌》などの詩集と,多種多様にわたってその数も多いが,彼の文学の大きな主題は,産業主義の非人間性に対する直観的な批判であった。なかでも《オハイオ州ワインズバーグWinesburg,Ohio》は,牧歌的な田園を背景に,因襲と孤独にさいなまれて歪曲していく人々のさまざまな姿を,多感な一青年の視点からとらえたもので,あまりにも急速な社会の変動によって生じた人間精神の混沌たる無秩序に,するどい目をそそいだ画期的な作品である。また,読者に直接語りかけるような単純な語り口で人生の断面をあざやかに描いてみせた短編の分野でも,新機軸をひらいた。つぎの世代に属するヘミングウェーやフォークナーたちは,彼の作家としての活動に大きな刺激を受けたし,彼らが文壇に登場する折には,先輩としての彼の尽力が大きかった。日本の現代作家のなかにも,彼の作品を愛好する人は少なくない。
執筆者:大橋 吉之輔
イギリスにおける科学的農業の先駆者で,差額地代(地代)の発見者として有名。エジンバラ近郊ハーミストンの農家に生まれ,若くして両親に死別しながらも,努力して化学を学び改良農法と農具をとりいれることによって,残された農場の経営に成功した。のちアバディーンに移り,借地農業者として能力を発揮する一方,改良農業に関する著述家としてもしだいに有名になり,1783年以降は文筆活動に専念。多数の著作は,借地関係,穀物法,植民問題から土地改良やスコットランド漁業問題まで多岐にわたる。彼の著作がマルサスやリカードの地代理論の基礎となっていることを初めて指摘し,彼を差額地代の発見者と呼んだのはマルクスであった。主著《穀物法の性質に関する一研究》(1777)。
執筆者:相川 哲夫
アメリカの実験物理学者。ニューヨーク生れ。カリフォルニア工科大学で学び,1930年にX線による気体からの光電子の放出の研究で学位を取得,33年同大学助教授,39年教授に就任した。R.A.ミリカンに師事し,ウィルソン霜箱を使っての宇宙線の研究に進み,1932年,P.A.M.ディラックが理論的に予言していた陽電子を発見した。翌年には,S.H.ネッダーマイヤーとともにγ線が電子と陽電子の対を創生すること(電子対生成)を検証,37年には,2人は湯川が予言したπ中間子であると考えられた粒子(現在のμ粒子)を宇宙線のウィルソン霜箱飛跡の中で発見した。さらに49年,μ粒子が電子と二つの中性微子に自然崩壊することを明らかにした。1936年,陽電子の発見によってノーベル物理学賞を受けた。
執筆者:山崎 正勝
アメリカの黒人のアルト歌手。人種差別のため音楽学校に行けず,個人レッスンで学んだ。1925年ニューヨーク・フィルハーモニー主催新人コンクールで1位となってデビュー。30年にはヨーロッパで成功をおさめ,のちにアメリカでも認められるようになった。35年ザルツブルク音楽祭で〈100年に一度の声〉と絶賛したのは協演のトスカニーニである。55年メトロポリタン歌劇場に創立以来初の黒人歌手として,ベルディのオペラ《仮面舞踏会》のウルリカ役に出演。黒人霊歌,オラトリオも得意。65年に引退。1953年に初来日。
執筆者:黒田 恭一
スウェーデンの地質・考古学者。1906年,スウェーデンの地質学研究所長になり,14年から25年まで,北京の農商部中国地質調査所の鉱政顧問として中国に滞在し,かたわら中国先史考古学を開拓した。この間,河北省周口店洞窟の北京原人の発見,河南省仰韶遺跡の発掘や,甘粛・青海省の彩陶遺跡を紹介した。帰国後,ストックホルム極東古物博物館の主事となり,その報告にこれまでの成果を紹介した。《黄土地帯Children of Yellow Earth》(1934)はその著書として有名である。
執筆者:岡崎 敬
アメリカの劇作家。第1次大戦中のアメリカ兵の生態を描いたL.ストーリングズとの共作《栄光何するものぞ》(1924)で地位を確立。その後,韻文劇に転じ,《女王エリザベス》(1930)など歴史的題材を扱った作品や,サッコ=バンゼッティ事件によった《ウィンタセット》(1935)を発表した。社会や歴史に対する関心が強く,韻文劇再興に熱意を傾けた。
執筆者:喜志 哲雄
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(長門谷洋治)
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…人間の記憶は,現在のコンピューターの記憶とは全く異なり,不完全で断片的な部分情報から記憶の全容を想い出したり(自己想起),ある内容から関連する他の内容を想い出したり(相互想起)することができる。このような連想記憶の数学モデルが,1970年代から中野馨,コホーネンT.Kohonen,アンダーソンJ.A.Anderson,甘利俊一らによって提案されてきた。 自己想起は,想起パターンがネットワークダイナミクスの安定平衡状態や安定不動点であるようなフィードバック型ニューラルネットワークにより,また相互想起は,想起をトリガーする入力パターンを出力想起パターンへ変換するフィードフォワード型ニューラルネットワークによっておのおの実現される。…
…宇宙線と名付けられたこの放射線は異常に高いエネルギーをもつので,その本質の解明と発生のなぞを解くことが新しい物理学と天文学の発展につながるものとして盛んに研究が行われた。イギリスのP.ディラックによって存在が予言された陽電子は,32年アメリカのC.D.アンダーソンによって磁場中の霧箱を用いた宇宙線観測から発見された。37年には湯川秀樹によって予言された中間子と考えられる粒子が宇宙線中に発見されて注目を集めた。…
…この理論によれば,実験で知られているように電気的に中性の中性子と陽子の間に力が働くのみでなく,その力が非常に短距離(10-13cm)ではとても強いが,少し離れると非常に弱くなるという性質をうまく説明できる。 この中間子を見つける実験が精力的に行われ,1936年から38年にかけてC.D.アンダーソンは宇宙線中に電子の200倍くらいの質量の粒子が存在し,これが10-6秒くらいで崩壊することを見つけた。当初はこの粒子が湯川の予言した中間子と考えられ,μ中間子と名付けられたが,湯川理論から予想される中間子の平均寿命約10-8秒から2桁も違い,また核子との相互作用も弱いなど矛盾する点が明らかにされた。…
…電子と同じ質量をもち,電荷は逆符号で+eである。P.A.M.ディラックの電子論ではその存在が予想されていたが,1932年C.D.アンダーソンによって宇宙線の霧箱写真中で初めて発見され,これによってディラックの理論の大筋が承認されるようになった。高エネルギーの光子が物質中を通過するとき電子・陽電子の対がつくられる(電子対生成)。…
…いずれもA.スミスの《国富論》によって,先駆的基礎が置かれた。豊度差額地代のほうは,アンダーソンJames Anderson(1739‐1808),D.リカード,K.マルクスへと受け継がれて発展させられた。位置の差額地代は,J.H.vonチューネン,F.アーレボー,T.ブリンクマンらのドイツ農業経営経済学派によって純化発展させられた。…
…【岡田 泰男】
[文学とミシシッピ川]
アメリカ中央を流れる大河ミシシッピは,交通の要路としてアメリカ人の生活に深くかかわっているだけでなく,巨大な国アメリカを象徴する大自然として文学者にも大きな影響を及ぼしてきた。シャーウッド・アンダーソンはこの川を〈アメリカ大陸の心臓部から流れ出る大動脈〉と称し,ジャック・ケラワックも,放浪中,その岸辺に行きついたとき〈わが愛するミシシッピ川〉と呼びかけた。そのほか,文学作品に描かれたミシシッピ川は枚挙にいとまがないほどである。…
…中国の西北部,甘粛・青海地方に分布した農耕と牧畜を基調とする新石器時代の文化。仰韶文化の発見者J.G.アンダーソンは,1923‐24年黄河上流の甘粛省洮河流域と青海省西寧河岸で彩色土器を伴う多数の遺跡を発見し,斉家期,仰韶(半山)期,馬廠期,辛店期,寺窪期,沙井期という甘粛六期の編年を行った。これは先史時代に関する最初の編年で,前の3期は青銅製品を欠いているから新石器時代後期または金石併用期に,後の3期は青銅器を伴うので青銅器時代初期にあてた。…
…ヤンシャオ遺跡とも呼ぶ。1921年,J.G.アンダーソンが発掘し,彩陶遺跡として報告した。これは中国の新石器時代遺跡の最初の科学的な発掘調査で,仰韶文化の名称はこの遺跡にちなむ。…
…老官台文化,裴李岡文化に遅れ竜山文化に先立つ。1921年J.G.アンダーソンが河南省澠池(べんち)県において発見した仰韶遺跡にちなんで名付けられた。従来,彩陶文化と同義に使用されてきたが,仰韶文化の基本要素は紅陶で,彩陶は一つの重要な特徴にすぎない。…
… 中国では,銘文のある遺物を研究する金石学が宋代以来の古い伝統をもっており,清朝末期には甲骨文の研究によって,伝説の王朝と見なされていた殷王朝の実在を証明し,その都が河南省安陽にあったことを確認するという大きな成果をあげているが,純粋な考古学的研究は外国人学者によって開かれた。外人学者のなかでは,スウェーデン人J.G.アンダーソンの活躍が著しい。彼は1921年以降,新石器時代の仰韶文化の存在を明らかにし,また周口店洞窟を発見して,北京原人発見の端緒を開いた。…
…中国,遼寧省錦西県沙鍋屯にある新石器時代の洞窟遺跡。1921年J.G.アンダーソンが調査。洞窟は石灰岩の山麓にあり,奥行き6m,幅2.2~2.5m,堆積層の厚さ2.2mの小規模なものである。…
…北京原人ともいう。周口店の遺跡はスウェーデンの地質学者J.G.アンダーソンによって発見され,1927年からロックフェラー財団の援助で発掘がおこなわれた。第1年目に発見されたのは下顎の左の大臼歯1本だけであったが,北京の協和医学院の解剖学教授であったカナダの人類学者D.ブラックは,この歯が大きさ,形,エナメル質の厚さ,髄腔の広さなどの点で現代人とは異なることを認め,シナントロプス・ペキネンシスSinanthropus pekinensisという名称を提唱した。…
…中国,甘粛省臨夏回族自治州広河県(旧,寧定県,東郷自治県)にある新石器時代の甘粛仰韶(ぎようしよう)文化半山類型の墓地遺跡。1924年J.G.アンダーソンが半山古墓群のうちの辺家溝と瓦缶嘴を調査した。遺跡は洮河(とうが)の河床から400m,標高2200mの半山山頂に位置している。…
※「アンダーソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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