日本大百科全書(ニッポニカ) 「軍拡競争」の意味・わかりやすい解説
軍拡競争
ぐんかくきょうそう
arms race
隣接する、ないし対抗する国家間における軍事力増強の相互刺激的な現象。冷戦期の米ソ、またインド・パキスタン間の核・ミサイル開発に典型例がみえる。古代中国に生まれた「矛盾」ということばに象徴されるように、矛(攻撃兵器)と盾(防御兵器)が性能を競い合いながら軍隊を肥大化させる、際限のない軍備拡張の自己運動は、国際社会にとってつねに解きがたい逆説であり難問であった。自国の安全を保つためにあるべき防衛力=軍備が、相手国に恐怖心をかき立て、不信から対立へ、対立から緊張へ、緊張から戦争に至った例は、ヨーロッパにおけるアテネとスパルタ、また近代の独仏関係など歴史上少なくない。ある国が強力な武器を手に入れたり軍隊の規模を増大させると、その隣接国あるいは仮想敵国は自国への脅威とみなし、軍備拡大で対抗する。こうして国民にとっては、安全と安心を得るために支払った税がさらなる負担増となり、一方文明にとっては、守るべき価値や資産が一夜にして破壊される危険を準備することになる。
20世紀の諸戦争にも、軍拡競争が大きな影を落とした。第一次世界大戦は、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、イタリアとフランス、ロシア、イギリスの軍拡競争が最高潮に達したときに始まった。とくにイギリスが1906年、新型戦艦ドレッドノートを建造したことで開始されたドイツとの海軍力競争は、近代型軍拡の典型例として知られる。第二次世界大戦の背景にも、ドイツと周辺諸国との海軍力と空軍力の拡張競争が介在した。また太平洋戦争に至る日本とアメリカ間にも、戦艦と空母の優位をめぐる建艦競争が背景にあった。一方が競争の負担に耐えられなくなるか、もしくは競争の成果に絶大な自信をもったとき、戦争の危険は限りなく増大する。日本による真珠湾攻撃は前者の例(生産力と石油備蓄の差)であり、ドイツの電撃戦は後者の例(機甲戦力の優)である。
第二次世界大戦後の世界は、究極の破壊手段=核兵器の出現により、全面戦争=人類絶滅につながる新たな情勢が生まれたが、しかしその下でも、米ソ両陣営の相互不信と相手の存在を世界平和の脅威とみなすイデオロギー対立=冷戦によって、大軍拡競争が核および通常兵器分野で引き起こされた。核軍拡の面でみると、タテの拡散(質の軍拡)とヨコの拡散(量の軍拡)の両面で、米ソは相手より優位にたとうとしのぎを削った。すなわち、1949年にソ連が原爆製造で追いつくと、1952年アメリカはさらに強力な水爆実験に成功し、その結果爆発威力は長崎型の20キロトン(高性能火薬2万トン相当)級から数十メガトン(数千万トン)級へと、わずか10年以内に拡大した。それとともに核の運搬手段も、爆撃機投下爆弾のみの段階(1940年代)からミサイル――大陸間弾道ミサイル(ICBM、1950年代)、さらに潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM、1960年代)へと多様化していった。またミサイル搭載能力の多核弾頭(MIRV(マーブ))化や精密誘導を追求した巡航ミサイル(CM)の開発にしのぎを削るなど、米ソ両国は国力を傾けながら抜きつ抜かれつの軍拡レースを展開した。これがタテの拡散である。一方、ヨコの拡散は、量の増大とともに核保有国の増加によって特徴づけられる。米ソに続き1950年代から1960年代にかけてイギリス(1952)、フランス(1960)、中国(1964)、イスラエル(おそらく1970年代)が核保有に参入していった流れである。タテ・ヨコ両面にわたる拡散の結果、1945年に2発だった核弾頭は、最大期の1986年には6万9480発まで備蓄量を増大させた。さいわいにも、これらの核兵器が実戦で使用されることはなかったとはいえ、一方で、開発と威力誇示を兼ねた2400回を超す核兵器実験によって、おもに太平洋諸島の核実験場周辺住民と環境に、いまだ癒(い)えない大きな被害を与えることになった。
冷戦後、核軍拡競争はそれまでと異なる様相をみせている。中国の核戦力に脅威を感じるインドが、それまで「平和目的」と称してきた核開発能力を爆弾の形で示す(1998)と、インドとカシミール問題で対立関係にある隣国パキスタンもただちに爆発実験で応じ(1998)、核拡散はインド亜大陸に飛び火した。さらに朝鮮半島でも、冷戦終結後、中ソによる「核のカサ」を失った北朝鮮が独自核戦力づくりに乗り出し、2006年と2009年に核実験を実施して「核保有」を宣言した。また中東においてはイランが、商業用原子炉から核爆弾原料の精製に向かっているとみられる。それらは運搬手段=弾道ミサイルの開発競争にも及んでおり、核+ミサイルの拡散は冷戦後の国際情勢不安定化の要因を形づくっている。
同時に、現代の軍拡競争の表れ方は、核拡散の分野のみにとどまるものでないことも知っておく必要がある。主権国家が192(国連加盟国)にまで増えた国際社会のひずみを反映した、国境、民族、宗教、さらには石油・水など資源争奪をめぐる国家間対立と地域紛争の頻発もまた、第二次世界大戦後の世界にさまざまな軍拡現象をもたらした。新興独立国の大半は兵器自給能力をもっていないので、その背後に超大国の体制内部に構造化された軍産複合体の存在と政府の兵器輸出政策が深くかかわっている。冷戦期の米ソは、同盟国獲得の目的と自国の軍備コストを下げるため、積極的に兵器輸出を行った。イスラエルと近隣諸国との4次にわたる中東戦争、8年間続いたイラン・イラク戦争も、兵器輸出・軍拡競争の構図と切り離しては語れない。冷戦終結後、第二次戦略兵器削減条約(START‐Ⅱ、1993年調印)や包括的核実験禁止条約(CTBT、1996年調印)などで核軍縮に一定の前進があり、個別兵器分野でも化学兵器禁止条約(1993年調印)、対人地雷全面禁止条約(1997年調印)、クラスター爆弾禁止条約(2008年調印)が締結された。しかし全体的にみれば、20世紀の国際社会は、軍拡競争とその破局である戦争という「矛と盾」の自家撞着(どうちゃく)から抜け出すことができないまま、新世紀に問題を先送りした。
[前田哲男]