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ロシア映画 ろしあえいが

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ロシア映画
ろしあえいが

この国での映画の誕生は欧米各国と同じく19世紀末であるが、厳密にいえば1917年のロシア革命を境に、ロシア映画とソビエト映画とに分けられ、1991年のソ連解体後はふたたびロシア映画へ戻ることになる。社会主義国であったためソ連時代の映画製作は国営化されており、統制色が強かったものの、逆にその分、文化的、芸術的に高い評価を与えられ、経済的にも保護されてきた。かつてのソ連時代には長編劇映画の製作本数は年間150本ほどあり、このほかに児童映画、科学映画、記録映画、テレビ用映画等が製作されていた。劇場での観客数もかつては年間40億人前後であり、世界でもっとも映画を見る国の一つであった。多言語・多民族で構成されていたソ連では15の共和国それぞれに映画製作所があって、モスクワの全ソ国立映画大学がその中心的な教育機関としての役割を果たしてきた。ソ連解体後はしばらく映画製作が困難になった時期もあるが、状況は好転してきている。[岩本憲児・田中 陽]

革命前のロシア映画時代

1896年、リュミエール兄弟の発明によるシネマトグラフがペテルブルグで公開されたが、この年すでに、モスクワの俳優の手によって最初のロシア映画(非劇映画)が撮影されており、フランス人によるニコライ2世の撮影ほか、ニュース映画風の題材が撮影されていった。1903年ごろから常設の映画館が誕生して外国映画の上映が盛んになるが、ロシア最初の劇映画は1908年の『ステンカ・ラージン(川下の盗賊団)』(ウラジーミル・ロマーシコフ監督)まで待たねばならない。これを製作・撮影したアレクサンドル・ドランコフAleksandr O. Drankov、シナリオのワシーリー・ゴンチャロフVaslii Goncharov(1861―1912)、そしてゴンチャロフと組んで本格的な長編劇映画『セバストポリの防衛』(1911)を発表したアレクサンドル・ハンジョンコフAleksandr Khanzhonkov(1877―1945)らがロシア映画の開拓者となった。1910年ごろから劇映画の製作が活発になり、著名文芸作品の映画化をはじめ、さまざまなジャンルがつくられ、監督のヤーコフ・プロタザーノフYakov Protazanov(1881―1945)、俳優のイワン・モジューヒンIvan Mozzhukhin(1889―1939)など優れた才能も登場するようになった。革命前のプロタザーノフ、モジューヒンのコンビによる代表作は『スペードの女王』(1916)である。しかしロシア映画全体は、ポーランド系のヴワディスラフ・スタレーヴィチWladyslaw Starewicz(スタレービチ、1882―1965)などアニメーションの先駆者もいたので、この時期の映画についてはソ連解体後に研究と再評価が進み始めている。[岩本憲児・田中 陽]

サイレント期のソビエト映画

1917年の十月革命が成功すると、2年後にすべての映画事業は国有化された。革命後に民衆啓蒙(けいもう)のメディアとして映画を最重要視したのはレーニンである。革命後しばらくは動乱期の国内の状況を反映して、ニュース映画や記録映画、扇動映画などがつくられた。なかでもジガ・ベルトフDziga Vertov(1896―1954)は、「キノプラウダ(映画真実)」(1922~1925)シリーズや長編記録映画『世界の六分の一』(1926)、『カメラを持った男(これがロシアだ)』(1929)ほかの作品で、社会学的・実験的ドキュメンタリーの第一人者となった。彼の先駆的な業績は第二次世界大戦後、ゴダールをはじめ世界各国の映画人に影響を与えている。一方、1919年設立の国立映画学校(のちの国立映画大学)に招かれた若きレフ・クレショフLev Kuleshov(クレショーフ、1899―1970)は、映画の創作・理論両面から研究を進めた。クレショフ・グループからは、のちに監督になったフセウォロド・プドフキン、ボリス・バルネットBoris Barnet(1902―1965)ほか多くの人材が輩出した。1921年に新経済政策(ネップ)が導入されると、文化や風俗面でもどっと欧米の影響が入り込んできたが、とくにアメリカニズムの影響は大きく、映画でもイワン・ペレスティアーニIvan N. Perestiani(1870―1959)の『赤い小悪魔』(1923)、クレショフの『ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』(1924)など、革命を題材にした冒険活劇やそのパロディーがつくられた。
 新しいソビエト映画の誕生はセルゲイ・エイゼンシュテイン(エイゼンシテイン)の『戦艦ポチョムキン』(1925)によって世界中に知れわたった。しかし、その革命的イデオロギー、内容と技法の衝撃性ゆえに、この映画を完全な形で公開した国は少なく、日本のように上映が禁止され、第二次世界大戦後やっと公開された国もある。その後のエイゼンシュテインの諸作品は、彼の該博なエッセイ集とともに映画史上の古典となった。実験精神に満ちたエイゼンシュテインと並び、『母』(1926)でソビエト映画を代表したのはプドフキンである。彼も、続く『アジアの嵐(あらし)』(1928)などの作品のみならず、著作を通して世界の映画人の研究の的となった。サイレント期のソビエト映画ではこのほか、ベテランのプロタザーノフ、新人のレオニード・トラウベルグLeonid Trauberg(1902―1990)とグリゴーリー・コージンツェフ(コジンツェフ)のコンビ、セルゲイ・ユトケーヴィチ(ユトケヴィチ、ユトケビチ)らが活躍しているが、国際的には「ウクライナの映画詩人」アレクサンドル・ドヴジェンコAlexander Dovzhenko(ドブジェンコ、1894―1956)が『大地』(1930)によって広く知られるようになった。ほかにフリードリッヒ・エルムレルFridrikh Ermler(1898―1967)、アブラム・ロームAbram Room(1894―1976)、ニコライ・シェンゲラーヤNikolai Shengelaya(1903―1943)、エスフィル・シューブEsfir Shub(1894―1959)、ユーリー・ライズマンYuli Raizman(1903―1994)、バルネットらが監督としての経歴を開始している。
 革命直後の解放的な雰囲気のなかで活気にあふれていた映画製作も、文化活動を政治によって指導するスターリン体制が強固になると同時に、自由な創造活動の枠が狭められていった。それでも、スターリンがトロツキーを追放したあとの1928年から、社会主義リアリズム路線が打ち出される1934年までの中間期は、前述した監督たちの活躍によってサイレント末期からトーキー初期の映画の代表作が誕生している。[岩本憲児・田中 陽]

トーキー以後

ソビエト最初のトーキー映画はコージンツェフ、トラウベルグのコンビによる『女一人』(1931)であるが、作品的にはニコライ・エックNikolai Ekk(1902―1976)の『人生案内』(1931)の成功が、ソビエト映画界を徐々にトーキー化へ進めていくことになった。エイゼンシュテインの僚友グリゴーリー・アレクサンドロフGrigori V. Alexandrov(1903―1983)の『陽気な連中』(1934)はジャズ・コメディの傑作である。1920年代には前衛的であった若手監督たちも、1930年代には社会主義リアリズムという公式的な枠のなかへ入っていく。コージンツェフとトラウベルグの「マクシム三部作」(『マクシムの青年時代』1935、『マクシムの帰還』1937、『ヴィボルグ地区』1939)はこの時代の代表作となった。ほかにエルムレルとユトケーヴィチの『呼応計画』(1932)、ゲオルギー・ワシーリエフGeorgii Vasiliev(1899―1946)とセルゲイ・ワシーリエフSergei Vasiliev(1900―1959)兄弟の『チャパーエフ』(1934)、ベルトフの『レーニンの三つの歌』(1934)、ミハイル・ロンムMikhail Romm(1901―1971)の『十月のレーニン』(1937)ほかがあり、欧米旅行から帰国して以来批判されることが多かったエイゼンシュテインも10年ぶりに『アレクサンドル・ネフスキー』(1938)を完成した。
 ナチズムの脅威が高まる1930年代後半から第二次世界大戦中にかけては、ドヴジェンコの『シチョールス』(1939)、マルク・ドンスコイの『戦火の大地』(1944)のような伝記映画、革命期の英雄映画、対ドイツ抵抗映画などが盛んにつくられた。しかしエイゼンシュテイン晩年の『イワン雷帝』二部作(1944、46)は偉人礼賛映画とは異なっており、第二部はスターリン死後5年目にやっと公開された。[岩本憲児・田中 陽]

第二次世界大戦後

日本側の検閲のため、第二次世界大戦前のソビエト映画が日本で公開される機会はきわめて少なかったが、大戦終了とともに輸入上映されたアレクサンドル・プトゥシコAleksandr Ptushko(1900―1973)のファンタジー『石の花』(1946)、イワン・イワノフ・ワノーIvan Ivanov-Vano(1900―1987)のアニメーション『せむしのこうま』(1947)、イワン・プィリエフIvan Pyrev(1901―1968)の『シベリヤ物語』(1948)などはいずれもカラーであり、日本人観客の心の飢えを満たした。ほかに、セルゲイ・ゲラーシモフSergei Gerasimov(1906―1985)の『若き親衛隊』(1948)、『静かなるドン』(1957~1958)、セルゲイ・ボンダルチュクの『人間の運命』(1959)などが評判になった。
 ソビエト映画が国際的に映画ファンの心をつかんだのは、スターリン死後の「雪解け」期以後に登場したグリゴーリー・チュフライGrigoriy Chukhray(1921―2001)の『女狙撃(そげき)兵マリュートカ』(1956)、『誓いの休暇』(1959)、ミハイル・カラトーゾフMikhail Kalatozov(1903―1973)の『鶴(つる)は翔(と)んでゆく(戦争と貞操)』(1957)、アンドレイ・タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』(1962)のように、登場人物の人間的感情が監督の新しい映像感覚によって表現されるようになったからである。文芸作品の映像化にも新しい風が入り、コージンツェフの『ハムレット』(1964)、ボンダルチュクの『戦争と平和』(1965~1967)、アレクサンドル・ザルヒAleksandr Zarkhi(1908―1997)の『アンナ・カレーニナ』(1968)、プィリエフの『カラマーゾフの兄弟』(1969)、アンドレイ・ミハルコフ・コンチャロフスキーの『貴族の巣』(1969)、ニキータ・ミハルコフNikita Mikhalkov(1945― )の『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』(1977)などが発表された。また、日本の黒澤明による『デルス・ウザーラ』(1975)、アメリカのジョージ・キューカーによる『青い鳥』(1976)、ソ連のエミーリ・ロチャヌーEmil Lotyanu(1936―2003)によるイギリスとの合作映画『アンナ・パブロワ』(1984)など国際的合作映画も誕生した。
 多民族・多言語国家であったソ連時代には、各民族共和国における映画製作も盛んであり、日本で公開された作品はいずれも民族色豊かな秀作が多かった。ウクライナからはセルゲイ・パラジャーノフの『火の馬』(1965)やユーリー・イリエンコYuli Ilyenko(1936― )の『山河はるか』(1965)、ジョージア(グルジア)からはオタール・イオセリアーニの『落葉』(1966)やゲオルギー・シェンゲラーヤGiorgi Shengelaya(1937― )の『ピロスマニ』(1972)、トルクメン(現、トルクメニスタン共和国)からはホジャクリ・ナルリーエフKhodjakuli Narliev(1937― )の『うちの嫁さん』(1972)、カザフ(現、カザフスタン共和国)からはトロムーシュ・オケーエフTolomush Okeyev(1935―2001)の『灰色の狼(おおかみ)』(1973)、白ロシア(ベラルーシ)からはワレーリー・ルビンチクValery Rubinchik(1940― )の『スタフ王の野蛮な狩り』(1979)、あるいはモルダビア(現、モルドバ)からはモスフィルムとの協力によるロチャヌーの『ジプシーは空に消える』(1978)などが生み出されている。
 ソ連時代は芸術家としての個人の表現の自由がどこまで可能なのか、大きな問題であった。『アンドレイ・ルブリョフ』(1971)、『惑星ソラリス』(1972)などでその才能をもっとも期待されていたタルコフスキーは、イタリアで『ノスタルジア』(1983)を完成したあと、1984年に亡命し、『サクリファイス』(1986)を遺作にパリで病死した。[岩本憲児・田中 陽]

ペレストロイカからロシア連邦へ

1985年にペレストロイカ(建て直し)が始まり、スターリニズムを寓意(ぐうい)的に描いたテンギズ・アブラーゼTengiz Abuladze(1924―1994)の『懺悔(ざんげ)』(1984)が公開されて大きな話題となった。グラスノスチ(公開)によって、お蔵入りしていた映画の数々が陽の目をみることになり、アレクセイ・ゲルマンAleksei German(1938―2013)の『道中の点検』(1971)、パラジャーノフの『ざくろの色』(1971)、アレクサンドル・ソクーロフの『孤独な声』(1978)、グリゴーリー・チュフライの『君たちのことは忘れない』(1978)などが次々と公開された。製作現場へも企画や表現の自由がもたらされ、エレム・クリモフElem Klimov(1933―2003)の『炎628』(1985)、ラシド・ヌグマノフRachid Nougmanov(1954― )の『僕の無事を祈ってくれ』(1988)、セルゲイ・ボドロフSergey Bodrov(1948― )の『自由はパラダイス』(1989)などが生まれた。ペレストロイカ末期の1988年、検閲などゴスキノ(ソ連邦国家映画委員会)による一元的国家管理体制が撤廃され、映画産業にも独立採算制が導入された。こうした自由のなかで独立プロダクションが乱立、製作本数は1990年に約300と、ソ連邦時代に比べて2倍近くへ急増、一時的な活況を呈した。ロシアの現実の苦しい生活はピョートル・トドロフスキーPyotr Todorovsky(1925―2013)の『令嬢ターニャ』(1989)やパーヴェル・ルンギンPavel Lounguine(1949― )の『タクシー・ブルース』(1990)にも描かれて話題となった。ほかに、第二次世界大戦中の学童疎開を扱った『金色の雪は宿った』(スラムベク・マミーロフ、1989)がある。
 1991年12月にロシア連邦が成立、ソ連邦崩壊後の市場経済の導入と経済的混乱により国からの資金援助が得られず、資金調達が困難となった。かつての採算を度外視した芸術至上主義的映画製作のシステムは崩壊し、ロシア映画は質量ともに凋落(ちょうらく)、1995年の製作本数は46本にまで減少した。とくに配給網は壊滅的打撃を受け、かつて世界一だった観客動員数も1億人前後にまで低迷した。そうしたなかでも、ニキータ・ミハルコフ、アレクサンドル・ソクーロフ、キラ・ムラトーワKira Mouratova(ムラートワ、1934― )らのような実力のあるベテラン監督らの、国外からの出資による作品も製作された。
 外国映画の輸入自由化で大量のハリウッド映画が流入し、アメリカ映画に席捲(せっけん)されたロシア映画の市場占有率は極端に落ち込んだ。その結果ロシア映画のハリウッド化が進み、アクションとセックスを売り物にする映画が1990年代を通して主要なジャンルに成長した。そうしたなかで、アレクセイ・バラバーノフAleksei Balabanov(1959― )の『ロシアン・ブラザー』(1997)が注目され、ニキータ・ミハルコフの『太陽に灼(や)かれて』(1994)、チェチェン問題を歴史的に暗示するセルゲイ・ボドロフの『コーカサスの虜(とりこ)』(1996)、アレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』(1998)、ソクーロフの『牡牛座』(2000)など、旧社会主義体制、とくにスターリニズムを批判的に問いかける作品も登場した。日本では個性的なソクーロフ作品の紹介が続き、『オリエンタル・エレジー』(1996)、『太陽』(2005)ほか多くが上映されている。なお、独立したジョージア、タジキスタン、カザフスタンなどでもいくつかの佳作が生まれている。[岩本憲児・田中 陽]

ロシア映画の復興へ

ロシア映画復興の機運は、1998年に映画人同盟議長ミハルコフが暴力とセックスにあふれる映画界を批判し、「ロシア人に誇りと自信を回復させるための手本を創出する」と述べたときであり、この考えは1999年に大統領に就任したプーチンの文化路線に合致するものだった。古きよき規律ある帝政時代を描いたミハルコフの『シベリアの理髪師』(1998)はまさにこの考えを体現したもので、自信喪失に陥っていたロシア人たちの琴線に触れ大ヒット、観客動員の記録をうちたてた。またこのころから映画を取り巻く経済的環境も好転し始めた。自国の映画文化の保護育成を目的に2000年に文化省へ編入されたロスキノ(ロシア映画委員会、通称「ゴスキノ」)、そこからの国家援助資金と国内資金だけで製作される作品が増加した。そうした映画のなかには皇帝列伝のようなロシアの誇りを意識させるものや、チェチェン戦争を正当化するような作品も含まれている。2002年のロシア映画とアメリカ映画のスクリーン占有率はほぼ2対8だったが、2005年のロシア映画はアメリカ映画をスクリーンから押しのけ始めている。1990年代後半から実力ある新人が輩出し始め、パーヴェル・チュフライPavel Chukhray(1946― )の『パパってなに?』(1997)や『ベーラの運転手』(2004)、アレクサンドル・ロゴシキンAleksandr Rogozhkin(ロゴシュキン、1950― )の『ククーシュカ ラップランドの妖精』(2002)、アンドレイ・ズヴャギンツエフAndrey Zvyagintsev(ズビャギンツェフ、1964― )の初監督作品『父、帰る』(2003)、ドミトリー・メスヒエフDmitri Meskhiyev(1963― )の『我らに』(2004)、アレクセイ・ウチーテルAleksei Uchitel(ウチーチェリ、1951― )のSF映画『宇宙を夢見て』(2005)、ウラディーミル(ウラジーミル)・ホチネンコVladimir Khotinenko(1952― )の『72M(セブントゥエム)』(2004)、アレクセイ・ゲルマン・ジュニアAleksei German Jr.(1976― )の『最後の列車』(2004)、SFXを駆使したティムール・ベクマンベトフTimur Bekmambetov(1961― )のホラーアクション『ナイト・ウォッチ』(2004)、『デイ・ウォッチ』(2006)など、内外での受賞作や異色作が生まれている。
 2000年代は、大国ロシアの復活にかけるプーチン、メドベージェフ体制のもと、新興資本主義国をひた走るなかで生じる矛盾と不条理、先行きのみえない不安感や怒りを反映したワレーリイ・フォーキンValery Fokin(1946― )の『変身』(2002)や、フィリップ・ヤンコフスキーFilipp Yankovsky(1968― )の『剣を持つ者』(2006)のような作品に加えて、現代ロシアの格差社会を痛烈に皮肉って話題をよんだセルゲイ・ロズニッツァSergei Loznitsa(1964― )の『私の喜び』(2008)のような作品もある。しかし、この時代の傾向の一つとして、古きよき時代としての帝政時代を舞台にした作品や、かつての大国ソ連邦の素朴でゆったりとした時代へのノスタルジーを感じさせるマリーナ・ラズベズキーナMarina Razbezhkina(1948― )の『収穫期』(2004)のような作品も現れ始めている。その一方で、主要なジャンルとして、第二次世界大戦や軍事をモチーフにした作品が依然として根深く残っている。その例としては、ソクーロフの『チェチェンヘ アレクサンドラの旅』(2007)、アレクセイ・ウチーチェリの『チェチェン包囲網』(2008)、ニキータ・ミハルコフの『戦火のナージャ』(2010)や、ロズニッツァの『霧の中』(2012)、カレン・シャフナザーロフKaren Shakhnazarov(1952― )の『ホワイトタイガー』(2012)などがある。[岩本憲児・田中 陽]
『ジダン著、高田爾郎訳『ソヴェト映画史』(1971・三一書房) ▽ユレーネフ著、町田陽子訳『世界の映画作家30 ソヴェート映画史』(1976・キネマ旬報社) ▽山田和男著『ロシア・ソビエト映画史』(1997・キネマ旬報社) ▽岩本憲児著『ロシア・アヴァンギャルドの映画と演劇』(1998・水声社) ▽ネーヤ・ゾールカヤ著、扇千恵訳『ソヴェート映画史 七つの時代』(2001・ロシア映画社)』

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世界大百科事典内のロシア映画の言及

【ソビエト映画】より

…映画史的にいえば,帝政時代からケレンスキーの臨時政府治下にかけての映画は〈ロシア映画〉であり,十月革命以後の映画が〈ソビエト(ソ連)映画〉である。1894年,モスクワ大学の2人の物理学教授の発明した機械による映画が学会で公開されたという説もあるが,ロシアと映画のかかわりは,96年5月,フランスのルイ・リュミエールの派遣したカメラマンがモスクワで皇帝ニコライ2世の戴冠式を撮影したのが始まりで,同じ月にロシア最初の映画館がペテルブルグに建てられ,イギリス,アメリカ,フランスの映画会社が支社を設置して映画市場を支配し,映画製作が始まったのは1907年になってからとされる。…

※「ロシア映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報

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