日本大百科全書(ニッポニカ) 「独立プロダクション」の意味・わかりやすい解説
独立プロダクション
どくりつぷろだくしょん
製作・配給・興行の流通機構を統御する大会社に所属せず、プロデューサー、監督、俳優などの製作者主体に映画作りを行うプロダクションをさす。略して独立プロということが多い。メジャーmajor company(大会社)とインディペンダントindependent production(独立プロ)とも対応させるが、時代や国、また集団によってその内実には大きな幅がある。
[佐伯知紀]
映画製作と独立プロ
ハリウッドの創設者たちが、当時の一大トラストであるMPPC(発明王エジソンが率いたモーション・ピクチャー・パテント・カンパニーの略)に反旗を翻した独立系製作会社(反トラスト派、後のメジャー)であった事実や、帰山教正(かえりやまのりまさ)の映画芸術協会、小山内薫(おさないかおる)の松竹キネマ研究所などの、なかば独立プロ的性格をもった集団が日本映画近代化の先駆けを果たした歴史を考慮すれば、映画製作と独立プロは本来的に近しい関係だということもできる。意欲と進取の若い精神で1960年代初頭、世界を席巻(せっけん)したヌーベル・バーグも、フランス映画がメジャーをもたず、その製作のほとんどを多彩な独立プロが担っていたことを抜きにしては語れない。強大なメジャー帝国を世界に誇ったアメリカ映画も、1950年代にはテレビの攻勢を受け、製作部門を切り離して配給会社への転身を余儀なくされる。リスク(危険)の大きい製作は、その多くが独立プロへと移行されたのである。バート・ランカスター製作の『マーティ』(1955)の成功や、カーク・ダグラスKirk Douglas(1916―2020)製作の『スパルタカス』(1960)などはこの期の産物である。
[佐伯知紀]
独立プロと映画運動
日本映画では1920年代にさまざまな独立プロが輩出している。牧野省三(しょうぞう)のマキノプロや衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)の衣笠映画連盟、時代劇スターの阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)、市川右太衛門(うたえもん)、片岡千恵蔵(ちえぞう)、嵐寛寿郎(かんじゅうろう)の各独立プロ、それに広い意味ではプロキノ(日本プロレタリア映画同盟)の創設も含められよう。しかし、大資本を必要とするトーキー時代の到来が、これらを大会社のもとに吸収してしまう。一般に、この独立プロなることばが特有の意味を定着させたのは、第二次世界大戦後、東宝争議とレッド・パージで撮影所を追われた左翼的映画人やその周辺の人々が、1950年(昭和25)から1953年にかけて展開した映画運動のためである。その文脈における「独立」は大企業からの独立を意味し、自主製作はもちろん、もっとも困難とされる自主配給や自主上映の回路までもが模索された。新星、キヌタ、近代映画協会などの独立プロがそれで、『暴力の街』(1950)の山本薩夫(さつお)、『どっこい生きてる』(1951)の今井正、『原爆の子』(1952)の新藤兼人(かねと)らが活躍し、イデオロギーに濃淡はあるものの、焼け跡日本で息づいていた国民的ヒューマニズムを喚起した。日本のこの独立プロ運動は、大手が量産体制を整える1954年ごろより衰退していったが、近代映画協会は現在も存続している。
[佐伯知紀]
映画産業停滞期における独立プロ
1960年代に加速した経済の高度成長がもたらした国民レジャーの多様化、テレビ文化の普及などのために、映像娯楽を一手に独占していた映画産業は急激な地盤沈下に直面する。とどまることを知らない観客数の減少により、大手製作会社が自ら構築した製作、配給、興行というコストのかかるシステム(ブロック・ブッキング・システム)を維持することが困難になった。その間隙(かんげき)を縫うように小さなプロダクションが誕生してくるのは、東京オリンピックが終了した翌年の、1965年(昭和40)ごろからである。また、大手の一角、大映が倒産するのは1971年である。
このような状況のなかで有名スター、著名監督なども専属会社を離れ、自分たちのプロダクションを興していく。三船敏郎の三船プロ(1962)、石原裕次郎の石原プローモーション(1963)、勝新太郎の勝プロ(1967)、中村錦之助(なかむらきんのすけ)(萬屋(よろずや)錦之介)の中村プロ(1968)が設立され、各社を代表するスターが、従来の枠組を超えた共演を果たし、話題をよんだ。この場合の独立プロの輩出は、映画界の既存システムの弛緩(しかん)が生み出したものともいえるだろう。この間、大手会社の東宝はリスクの高い製作部門を子会社化、あるいは縮小し、経営資源を配給、興行部門に集中していった。
もっとも、1970年代から1980年代なかばまでは、ジャンルと観客を限定化することで、東映やくざ映画、日活ロマンポルノなど、おもに男性観客を対象とした撮影所製作の映画が量産されていた事実も見落とせない。そのなかで映画と大衆(老若男女の観客)という主題を担った唯一の例外が、松竹の『男はつらいよ』シリーズ(1969~1995)だったともいえるだろう。いずれにしても、配給、興行に経営の中心を置き直し、事業の多角化を図ることで大手映画会社は企業としての延命を図る。
加えてシネマ・コンプレックス(シネコン)の到来が、その配給、興行の地図を大きく塗りかえてゆく。1993年(平成5)に初めてオープンしたシネコンは、激減する一方だった映画館数(最低値は1993年の1734館)の増加に貢献し、2012年においては、3339スクリーンを数えるに至っている。
[佐伯知紀]
独立プロとインディーズ
一方、1980年代なかば以降「インディーズ」ということばが一般化していくことも指摘しておかねばならない。というのも「独立プロ」の語には、経緯のなかで、左翼的な意味合いが含まれており、また、1960年代後半に本格化したスタープロ、監督プロの場合においても、既存の撮影所=スタジオが対抗概念として前提とされていたからである。
インディーズは、それらとの区別において用いられたものでもある。元来は欧米のミュージック・シーンで使用されたことばであったが、基本的には自主製作映画、自主上映から出発した人材が多く、かならずしもスタジオを前提としない映画製作に特徴をもっていた。1977年から始まったPFF(ぴあフィルム・フェスティバル)に代表される自主映画のフィールドからスタジオ製作の長編劇映画に進出する監督、プロデューサーが現れると、当初の意味は曖昧(あいまい)化していった。そして、1990年代以降は、従来の独立プロとインディーズが混在しながら、製作現場をリードしてきたといえるだろう。
もっとも、独立プロ、インディーズを概括するのは容易ではない。現状では、当初の意味合いを保持した個人プロダクションの規模から、大手出版社の映像部門までも含んでおり、その内実には相当の開きがあるからである。小規模プロダクションの場合、作品を製作した後の上映に困難を抱え込むことが多いのは、前述したように、大手映画会社がそのシステムを系列化しているためであり、この点において配給興行優位の現状があることは否定できない。もっとも、その種の作品にふさわしい小規模な劇場、ミニシアターが、大都市を中心に展開していったのも1980年代の特徴である。
しかし、シネコン時代に入るとやや事情が異なってくる。放送局が中心となる製作委員会方式の映画が多数のスクリーンで一挙に公開され、興行的な成功を収める現象が増加するにつれて、ミニシアター系統の作品の集客力が低下してゆく事態が招来した。小プロダクション、インディーズは独力で製作を図りながらも、製作委員会の一員に名前を連ね、制作担当として参加するなど多様な展開を行っている。
[佐伯知紀]
著作権をめぐる状況
ところで、1980年代以降、映画作品のテレビ放映、ビデオ発売、衛星放送における放映など二次使用、三次使用の割合が増えてきた。コンテンツとしての映像が、フィルム以外の媒体で個人的に繰り返し鑑賞できる環境が整い、従来の映画館入場者数だけでは、鑑賞人口を把握できない時代になった。そして、これに伴い著作権の問題が新しい視点で論議されるようになってきた。
これは映像ソフトとしての作品の重要度が増したことでもあり、製作に参加すること、つまり著作権を保持することをおろそかにできない時代になったことを意味している。その意味では、大手も製作に関与せざるをえない状況になったといえよう。2000年代に入り、映画映像コンテンツの知的財産としての価値が強調され、また2012年(平成24)には放送がすべてデジタル化し、衛星放送・CS・ケーブルテレビのチャンネル数が増加、インターネットによる映像配信が現実化するなど、映画映像分野の環境は著しく変化しており、その変化は現在進行中でもある。ともあれ、独立プロ、インディーズを取り巻く状況に、日本映画の課題が集約的に現れていることは間違いない。
[佐伯知紀]
『山田和夫監修『映画論講座4 映画の運動』(1977・合同出版)』▽『戦後日本映画研究会編『日本映画戦後黄金時代7 独立プロ』(1978・日本ブックライブラリー)』▽『新藤兼人著『新藤兼人映画論集1 私の足跡――独立プロ30年のあゆみ』(1980・汐文社)』▽『今村昌平・佐藤忠男・新藤兼人・鶴見俊輔・山田洋次編『講座 日本映画5 戦後映画の展開』『講座 日本映画6 日本映画の模索』(1987・岩波書店)』▽『岡田裕著『映画 創造のビジネス』(1991・筑摩書房)』▽『大高宏雄著『興行価値――商品としての映画論』(1996・鹿砦社)』▽『兼山錦二著『映画界に進路を取れ』(1997・シナジー幾何学)』▽『丸山一昭著『世界が注目する日本映画の変容』(1998・草思社)』▽『村上世彰・小川典文著『日本映画産業最前線』(1999・角川書店)』▽『大高宏雄著『日本映画逆転のシナリオ』(2000・WAVE出版)』▽『掛尾良夫著『映画プロデューサー求む』(2003・キネマ旬報社)』▽『大高宏雄著『日本映画のヒット力――なぜ日本映画は儲かるようになったか』(2007・ランダムハウス講談社)』