ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ロタール2世」の意味・わかりやすい解説
ロタール2世(3世)
ロタールにせい[さんせい]
Lothar II (III)
[没]1137.12.3/4. ブライテンワング
ドイツ王 (在位 1125~37) ,神聖ローマ皇帝 (在位 33~37) 。ザクセン家出身。カロリング朝時代にドイツにも君臨したロタール1世を数えるか数えないかによって,2世とも3世とも数えられる。叙任権論争末期に皇帝ハインリヒ5世を助けた功により,1104年ザクセン大公に任じられたが,やがてハインリヒにそむいた。 10年ノルトハイム家とブルンスウィック家の相続人であるリヒェンツァと結婚。北部ドイツで最も広大な領地をもつ有力諸侯となった。 12~15年にかけてハインリヒに対して反乱を起し,やがて教皇庁の支持を得てハインリヒ5世の死後,25年ドイツ王に選ばれた。しかしホーエンシュタウフェン家と争い,その地位は必ずしも安定せず,33年ようやく皇帝戴冠を受けた。短い在位中に領内を平定し,ドイツの国域を北方,東方に広め,当時の年代記作者から平和の確立者として賛美された。
ロタール2世
ロタールにせい
Lothar II
[没]869.8.8. ピアツェンツァ
ロタリンギア王 (在位 855~869) 。ロタール1世の次男。ベルダン条約 (843) で西ローマ皇帝の称号と,イタリア地方を得た父王の遺領は,3人の兄弟に分割され,西ローマ皇帝位は兄のルイ (ルートウィヒ2世) が獲得したが,ロタールには中部フランクが与えられた。この地を自分の名にちなみロタリンギア (ロタールの王国 Lotharii regnumから Lotharingia,のちのロレーヌとなった) と名づけた。死後メルセン条約 (870) でロタリンギアの東半分は東フランクに,西半分は西フランクに併合され,今日のドイツ,フランス,イタリアの原型が形成された。
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