870年に東フランク王ルートウィヒ2世と西フランク王カール2世の間に締結された分割条約。ベルダン条約によってロタール1世に帰属した中部フランクは,彼の死後〈ロタールの王国〉すなわちロタリンギア(ロートリンゲン)として次子ロタール2世が領有していたが,その死(869)を機に叔父のカール2世が武力で占有するに至った。しかし同じく同地域の領有を志向していたルートウィヒ2世の圧力に直面して交渉に同意,870年8月,メルセンの地で条約が結ばれた。これによりカール2世は,マース,ウルテ,モーゼル,ソーヌを結ぶ線の西側部分を得たが,アーヘンなどの存在するカロリング王権中核地帯の大半は東部分を獲得したルートウィヒ2世に帰した。この分割線は,ドイツとフランスとの言語境界線には沿うものの,政治・教会上の諸関係は顧慮されなかったため,879年には再画定を余儀なくされるなど暫定的要素を有したが,歴史的にはドイツ,フランス,イタリア3国国境の原型を創出した。なおロートリンゲン(ロレーヌ)の領有問題は,近・現代に至るまでドイツ,フランス間の政治課題として残った。
執筆者:日置 雅子
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870年、東西両フランク王国間で結ばれた、ロートリンゲン王国の分割協定。ベルダン条約(843)により皇帝位とともに中部フランク王国(ロートリンゲン、ブルグント、北イタリア)の支配権を獲得したロタール1世が死去したのち、次子ロタール2世はロートリンゲン王国を相続した。869年、ロタール2世の死によってカロリング家の王統が絶えると、西フランク国王シャルル1世はロートリンゲン王国を併合した。これは867年、メッツ(メス)で結ばれた東西両王国間の協定を無視した行為であったので、東フランク国王ルートウィヒ2世は、これを実力で阻止しようとし、両国間に戦端が開かれようとしたが、870年オランダ、アーヘン北西のメルセンMeerssenで妥協が成立し、おおむねモーゼル川上流とマース川下流の線に沿ってロートリンゲンとフリースラントとが東西両王国に分割された。しかし、その後も紛争が続き、880年のリベモン条約により、東フランク国王ルートウィヒ3世がロートリンゲン西部をも獲得した。
[平城照介]
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870年,兄弟の東フランク王ルートヴィヒ(2世,ドイツ人王)と西フランク王シャルル(2世,禿頭王)が,長兄ロタール(1世)の死(855年)に伴い,その領土である中部フランクをほぼ均等に再分割した条約(メルセンはアーヘンの北西約30km,オランダ)。ヴェルダン条約を受け,この条約によってドイツとフランスの分離はさらに明白となった。
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… 843年のベルダン条約は,ロタール1世(ロタリンギア),ルートウィヒ2世(東フランク),カール2世(西フランク)の取分の線引きを明瞭にし,中世末まで唯一拘束力のある国際条約となった。しかしロタリンギアからは早期にイタリアとプロバンス両王国が分立し,残った狭義のロタリンギアは,メルセン条約(870)によって,ルートウィヒ2世とカール2世の間に分断された。923年にはゲルマニア側に移る。…
※「メルセン条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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