一心院(読み)いつしんいん

日本歴史地名大系 「一心院」の解説

一心院
いつしんいん

[現在地名]茨城町上石崎 飯塚

涸沼ひぬま川の下流左岸の台地上に位置し、東に涸沼を望む。真言宗智山派。福蔵山明了寺と号し、本尊薬師如来。寺伝によると永正二年(一五〇五)宥観の開基という。田島たじま(現内原町)和光わこう院末で、除地二石余を有した。享保六年(一七二一)の鐘銘(「新編常陸国誌」所収)に「福蔵山一心院、居水戸城南上石崎邑、其地燥高、前臨比沼之大湖、林木環囲蔚然、寔為一方勝区矣、正殿安医王善逝之尊容、霊験恒赫、莫祈而応也、是以遠邇所帰仰者、相踵無絶矣、雖祠宇既見、而鳧鐘未設、今上野邑人有安勘兵衛、夙発大願心、鋳銅鐘一枚工執役不日而竣功」とある。


一心院
いつしんいん

[現在地名]東山区林下町

華頂かちよう山の麓、知恩院勢至せいし堂・法然ほうねん廟堂の南に位置。山号群仙山、浄土宗捨世派本寺。本尊はもと青蓮しようれん護摩ごま(現東山区)安置されていたという阿弥陀如来で、寺伝に安阿弥作という。そのほか両大師坐像・開山称念上人像を安置。

開基の称念は武蔵国品川しながわ(現東京都品川区)の人で、八歳にして江戸増上ぞうじよう(現同港区)親誉について剃髪、のち下総飯沼いいぬま(現千葉県銚子市)弘経寺鎮誉に師事し、浄土一乗大戒を受け、以降、もっぱら念仏を修した。上洛して黒谷くろだに(現京都市左京区)に入り、青蓮院尊鎮親王の帰依を受けて寺域を賜り庵を結んだ。六時念仏するに信徒参集し、いくばくもなく仏殿僧房がなったという。すなわちこれが一心院の草創である(称念上人行状記・和漢三才図会)。称念は天文二二年(一五五三)知恩院御影堂(現勢至堂)を依所とし、毎月二四日夜不断念仏の行を始めたが、翌年一心院で没した。


一心院
いつしんいん

[現在地名]大館市谷地町 後

谷地やち町の西にある。浄土宗で起行山と号し、本尊は阿弥陀如来。下野国大沢山円通えんつう寺派。江戸初期、常州那珂郡小場より移転という(大館旧記)。天和三年(一六八三)知行三〇石余、享保一六年(一七三一)では一八石(「御判紙写帳」県立秋田図書館蔵)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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