日本歴史地名大系 「谷地町」の解説 谷地町やちまち 秋田県:仙北郡角館町角館城下谷地町[現在地名]角館町山根(やまね)町内町の一町で、東に外(そと)ノ山がせまり、山際の坂道は北の細越(ほそごえ)へ続く。通りの西側に足軽・小者が住み厩の世話をする者がいたので御厩(おうまや)町ともよばれた。西は裏(うら)町。延宝九年(一六八一)には四五戸ほどが住んだ(角館誌)。 谷地町やちまち 秋田県:秋田市久保田城下谷地町[現在地名]秋田市中通(なかどおり)二丁目・同四丁目・同六丁目の各一部土手谷地(どてやち)町・中谷地(なかやち)町に分れる。町割は長野町と同様、元和六年(一六二〇)までに行われた。「梅津政景日記」寛永三年(一六二六)三月二二日条に「御鷹之菱喰朝御振舞」に招かれた給人衆のなかに「両やち(谷地)町」の者もいた。土手谷地町を各種の御城下絵図でみると、その東部は土塁をもって長野町と隔している。 谷地町やちまち 秋田県:本荘市本荘城下谷地町[現在地名]本荘市谷地町西に東(ひがし)町、東に花畑(はなはた)町があり、北端に八幡神社がある。御蔵溝(みくらみぞ)以東の町で、下級武士および足軽の侍屋敷町であった(本荘町志)。かつては八幡小路(はちまんこうじ)とよばれた。谷地町の南側の一部が本田仲(ほんたなか)町となる。 谷地町やちまち 秋田県:大館市十二所町谷地町[現在地名]大館市十二所 十二所町十二所(じゆうにしよ)町の西部に位置する武家町。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「谷地町」、幕末期の十二所士族屋敷図に「谷地丁」とある。 谷地町やちまち 秋田県:大館市大館町谷地町[現在地名]大館市谷地町城下南端部に位置し、本藩直臣の給人が居住する武家町。元禄一七年(一七〇四)の大館城下絵図に「谷地町」とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」や幕末の「郷村史略」でも「谷地町」と記し、低湿地なるがゆえにその名があるという。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by