万里小路宣房(読み)までのこうじのぶふさ

関連語 清田

改訂新版 世界大百科事典 「万里小路宣房」の意味・わかりやすい解説

万里小路宣房 (までのこうじのぶふさ)
生没年:1258(正嘉2)-?

鎌倉末~南北朝期の公卿。父は資通。もと通俊と称した。1281年(弘安4)従五位下,1318年(文保2)権中納言,25年(正中2)大納言となる。1324年の正中の変のときには勅使として鎌倉へ赴き,事件を落着させた。笠置落城後は官位を剝奪されたが,建武政権では正二位大納言から34年(建武1)従一位に進み,雑訴決断所の頭人にもなった。吉田定房北畠親房とともに〈後の三房〉と称された。35年正月出家。その後の動静は不明。日記を《万一記(まんいつき)》という。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「万里小路宣房」の解説

万里小路宣房 までのこうじ-のぶふさ

1258-1348 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
正嘉(しょうか)2年生まれ。藤原(万里小路)資通(すけみち)の子。従一位,大納言にいたる。後醍醐(ごだいご)天皇に重用され,北畠親房(ちかふさ),吉田定房とともに「後(のち)の三房(さんぼう)」と称される。正中(しょうちゅう)の変に際して幕府への釈明の勅使となり,建武(けんむ)の新政では雑訴決断所頭人(とうにん)をつとめた。建武3年出家。貞和(じょうわ)4=正平(しょうへい)3年10月18日死去。91歳。日記に「万一(まんいち)記」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

旺文社日本史事典 三訂版 「万里小路宣房」の解説

万里小路宣房
までのこうじのぶふさ

1258〜?
鎌倉末期・南北朝時代の公卿
藤原宣房ともいう。後醍醐 (ごだいご) 天皇即位後,その親政を補佐し,吉田定房・北畠親房とともに「のちの三房」といわれた。1324年正中の変に際し勅使として鎌倉におもむき日野俊基らの釈放につとめ,'31年元弘の変では官爵を削られたが,建武新政府にも登用され,雑訴決断所の頭人となり政界に復帰した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「万里小路宣房」の解説

万里小路宣房
までのこうじのぶふさ

1258~1348.10.18

鎌倉中期~南北朝期の公卿。従一位大納言。資通の子。初名は通俊。後醍醐天皇の有力な近臣で,吉田定房・北畠親房とともに「後の三房」と称された。1324年(正中元)の正中の変の際,勅使として鎌倉に下向し事件を落着させた。建武政権下では,雑訴決断所の頭人となる。36年(建武3・延元元)出家。日記「万一記」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「万里小路宣房」の意味・わかりやすい解説

万里小路宣房
までのこうじのぶふさ

藤原宣房」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の万里小路宣房の言及

【三房】より

…為房も白河,鳥羽天皇のもとで活躍した。後三房は南北朝期の吉田定房万里小路(までのこうじ)宣房北畠親房。3人は後醍醐天皇の信任厚く,定房,宣房は正中の変,元弘の乱にも関与し,親房は《神皇正統記》を著し南朝の指導者として重要な位置を占めた。…

※「万里小路宣房」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

貨幣 (名目) 賃金額を消費者物価指数でデフレートしたもので,基準時に比較した賃金の購買力を計測するために用いられる。こうしたとらえ方は,名目賃金の上昇が物価の上昇によって実質的には減価させられている...

実質賃金の用語解説を読む