三ッ木村(読み)みつぎむら

日本歴史地名大系 「三ッ木村」の解説

三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]木屋平村 三ッ木・みつぐ・ビヤガイチ・小日浦こびうら東宮山とうぐうさん市初いちはな菅蔵すげぞう葛尾つづろ桑柄くわがら南張みなみばり杖立つえたて杖谷つえだに樫原かしはら向樫原むこうかしはら尾山おやま麻衣あさぎぬ竹尾たけお

現木屋平村域の北部、穴吹あなぶき川流域の山間に位置する。近世には麻植おえ郡に属し、南は同郡川井かわい村、東は名西みようざい上山かみやま上分かみぶん(現神山町)、西は美馬郡半平はんだいら(現穴吹町)、北は麻植郡中村なかむら(現美郷村)など。三ッ木は三木とも書き、三ッ木山(正保国絵図)・三木山(「阿波志」など)ともいった。また近世の郷村帳類では三木・樫原の二筆で高付されることもあり、樫原は柏原・栢原とも記した。当地の三木氏は大嘗祭に木綿や麁布などを貢進した阿波忌部氏の裔といい、地名は貢に由来するといわれる(改訂木屋平村史)。なお川井村との間では入組みがあり、当村南張名五〇軒が一時期川井村に属していたことがあり、また逆に同村の麻衣名・竹尾名の六〇軒のうち半数以上が当村に属していたため、隣同士で三ッ木村百姓・川井村百姓に分れていたという(願成寺蔵棟札・川原宇佐八幡宮蔵棟札・「木屋平村史」)。また一般に字三ッ木は下地しもじ、同貢は空地そらじとよんでいる。

〔中世〕

中世には種野たねの(麻殖山ともいった)のうちで、三木名ともいった。元亨元年(一三二一)一一月一九日代官沙弥願仏は、「麻殖山内三木村」の番頭(三木安村)や百姓たちが願仏の苛斂誅求に耐え兼ねて訴申したことに応えて、下知を下している。この下知状(三木家文書、以下断りのない限り同文書)は一九ヵ条からなり、第一条の売材木の禁止以下、手酒、京上時の草手、込桑、兵庫送り、初物、漆掻、稲荷供米、節料足駄、仏斎会、正月廻銭、懸糸、所買、年貢未進逃亡、馬の秣、当番炊事屋勤仕など一九ヵ条について取決められている。嘉暦二年(一三二七)三月八日の種野山在家年貢等注進状案によると、三木には種野山定在家七四宇のうち五宇大があり、御弓正月廻銭二貫文・三日厨銭一〇〇文・絹の織賃五〇〇文・皮代四六五文・桑代三〇〇文・量マイノ代三二五文・懸糸代五〇文の合せて公事銭三貫七四〇文を負担していた。


三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]入間市西三ッ木にしみつぎ三ッ木台みつぎだい

上谷かみやぬき村の西、加治かじ丘陵南麓にある。西は寺竹てらたけ村。南麓を根通ねどおり道、南部台地を青梅道が東西に通り、中央をかつら(現霞川)が東流する。口伝によると古くは真木まき村と称し、牧であったという。入間郡金子かねこ領に属した(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)三月旗本高林与五右衛門(昌重)は入間・多摩郡等で三〇〇石の知行地を宛行われており、このうちに当村の分が含まれると推定される(寛政重修諸家譜)。慶長七年(一六〇二)当村のうち幕府領分の地詰検地が大久保長安配下の矢崎七郎右衛門・青柳内匠によって実施された。入間郡三ッ木村地詰帳写(三木家文書)によれば田一六筆・一貫八八七文、畑一貫九一三文でうち桑一五筆・一四束半三分、綿七三文、開田畑六筆・三四四文。名請人は案内を勤めた将監(一貫二〇八文持)ほか一八名、屋敷持三名。田園簿では田五三石余・畑三五石余。幕府領一九石余・旗本高林領六九石余で、ほかに幕府代官納めの野銭永七三文。


三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]武蔵村山市三ッ木・三ッ木一―五丁目・三ッ藤みつふじ一―三丁目・伊奈平いなだいら一―六丁目・残堀ざんぼり一―五丁目

狭山丘陵南麓に位置し、東は中藤なかとう村・横田よこた村、南は砂川すながわ村・殿ヶ谷とのがや新田(現立川市)、西はきし村、北は入間郡勝楽寺しようらくじ(現埼玉県所沢市)。南方を青梅おうめ街道が通る。蛇堀じやぼり(残堀)で、北西方の箱根ヶ崎はこねがさき(現瑞穂町)に向かう同街道から、西に直進して新町しんまち(現青梅市)に至る原江戸はらえど(もとの青梅街道)が分岐した。近世初頭は旗本二氏に采地が与えられていた。大河内又次郎正勝は徳川家康の関東入部に従い、天正一九年(一五九一)当村に二五〇石を与えられた(「寛政重修諸家譜」など)。大河内氏の知行地は初め当村のみで、のち下総国海上うなかみ郡などに加増されたが、当村の知行地は移動することなく幕末に至った。


三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]境町三ッ木

新田につた郡に属し、同郡今井いまい村の東南部に位置。村の東方をはや川が南流する。平坦地ではあるが、村の西北方は緩やかな丘陵地帯をなす。日光例幣使街道が東南部を通る。享保二年(一七一七)に大火があり、この時から同街道寄りに引移ったという。

中世の新田庄上今井かみいまい郷、世良田せらだ(現新田郡尾島町)の枝村として、両郷境界域の空閑内に立地。仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重譲状・新田義重置文(長楽寺文書)の両状によると、新田氏の祖源義重が妻(義季母)を介してらいわう(次郎義季)に譲った空閑一九郷の一つに三木がみえる。記載の順は世良田・三木・上今井で、この段階ではともに空閑の郷々として併立していたが、世良田・上今井両郷が新田氏の支配拠点村落として発展していくなかで、両郷の枝村になった。


三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]鶴ヶ島市三ッ木・三ッ木新田みつぎしんでん高倉たかくら

高倉村の東にあり、入間いるま川支流大谷おおや川が北東へ流れる。北は脚折すねおり村。西方を日光脇往還がほぼ南北に走る。高麗こま郡川越領に属した(風土記稿)。田園簿では田九五石余・畑八八石余・野高一〇石、ほかに野銭永一貫二〇〇文があり、川越藩領。慶安元年(一六四八)の川越藩による検地では田一六町二反余・畑三四町余・屋敷一町一反余、名請人三八名(「検地帳」三ッ木区有文書)


三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]鴻巣市三ッ木・赤見台あかみだい二丁目

中井なかい村の北、南流していた元荒川が東へ向きを変える地点の南方低地上にある。東は川面かわづら村、西は前砂まえすな(現吹上町)、北は元荒川を隔て埼玉郡ふくろ(現同上)。南から北東へ行田へ向かう道が通る。足立郡おし領に属した(風土記稿)。寛永一二年(一六三五)の忍領在々御普請役高辻帳(中村家文書)に三木村とみえ高二一九石余。田園簿では田一一七石余・畑一〇二石余、旗本岡領。以後幕末まで同領。中山道鴻巣宿の助郷村で勤高一二〇石(嘉永四年「鴻巣宿助郷帳」中野家文書)。元荒川から取水して南東へ引く三ッ木堰が設けられている。同堰用水並悪水路御普請組合のほか荒川通堤川除御普請組合、成田なりた堰用水御普請組合、市縄いちのなわ村悪水路落圦樋壱ヶ所御普請組合に入る(天保六年「忍領石高帳并掛場普請組合記」野中家文書)


三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]狭山市東三ッ木ひがしみつぎ新狭山しんさやま

加佐志かざし村の北にあり、北は下奥富しもおくとみ村、東は青柳あおやぎ村。中央を新河岸道が通り、南部を久保くぼ川支流三ッ木堀が東流する。天文六年(一五三七)北条氏綱が上杉朝定と河越城をめぐって戦った際、「三木原」に陣を布いたという(河越記)。小田原衆所領役帳には他国衆三田弾正少弼の所領として入東につとう郡の「三木村」二〇貫文がみえる。「風土記稿」によると、北条高時旧臣金子和泉守国重は鎌倉幕府滅亡後、郡内の三ッ木(現入間市西三ッ木)へ土着、姓を三ッ木と改めたのち当地へ移住したという。田園簿には三ッ木村とあり、高八八石で皆畑、幕府領と旗本杉浦領。


三ッ木村
みつぎむら

[現在地名]出島村三ッ木

いち川左岸にあり、村内に根本ねもと村・上大堤かみおおつつみ村の一部を抱えて三分され、「水府志料」には「此村坪々地壌はなればなれにして、中間に別村有り」と記される。天正期(一五七三―九二)に佐竹氏の支配下に入り、のち一族の東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百弐拾九石七斗七升 三木」とある。

江戸時代は水戸藩領で、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高一四八・四二石、ほかに新田三石余とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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