高倉村(読み)たかくらむら

日本歴史地名大系 「高倉村」の解説

高倉村
たかくらむら

[現在地名]角田市高倉

阿武隈高地北東山間部にあり、北は稲置いなおき村・毛萱けがや村、南は笠島かさしま村、東はおか村、西は刈田かつた犬卒都婆いぬそとば(現白石市)に接する。西半分は山間地で山間に集落があり、沢田も多く、東半分は水田・野谷地をなす。西部の山間地上代わだいを水源地とする高倉川が村央を東へ流れ、中流域山間地から平地にかわる地点にある町場を経て東境の破橋やぶれはしで岡村に入る。南北に大河原おおがわら道、東西に白石しろいし城下への道が通る。ほかに白石より大町おおまち(現白石市)を経て当村西はずれの駄詰だづめ(立目)にかかり、笠島村から角田本郷に至る角田道筋があった。村名は高蔵とも記され、真言宗智山派高蔵こうぞう寺に由来する。伊具いぐ郡には大蔵おおくら(現丸森町)横倉よこくら佐倉さくら斗蔵とくらなど蔵(倉)の音をもつ地名も多く、これらに共通する他の由緒も考えられる。上・下二村に分けて記されることもある。

天文七年(一五三八)の段銭古帳に「たかくら」とみえ、段銭は二四貫七五〇文。同一〇年六月二九日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、高倉郷内の田手治部少輔よりの買地横山在家(年貢一貫五〇〇文)、修理よりの買地宮田九段一宇残らず(年貢一貫三〇〇文)と靫内の屋敷畠一貫文の地・屋敷のほか田畠年貢一貫三〇〇文の所、金沢上総介よりの買地小田殿一宇残らず(年貢六〇〇文)、平岡よりの買地手代木てしろき在家田畠山谷地一宇残らず(年貢五〇〇文)が明智藤松に安堵されている。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]郡山市日和田町ひわだまち高倉たかくら

日和田・梅沢うめざわ両村の北、東流する五百ごひやく川が阿武隈川に合流する地の南西の段丘に立地。主集落は高倉山(三二四・三メートル)北麓にあり奥州道中の宿駅。応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に「高倉 遠江守顕定」がみえる。戦国期高倉山の高倉城(松峯城)に二本松の畠山氏一族の畠山氏(政泰―満国―晴賢―氏詮)が拠った(相生集)田村清顕安積あさか郡への天正三―四年(一五七五―七六)の攻勢により高倉城主畠山治部も清顕に属したが(奥陽仙道表鑑)、その後蘆名氏方に属し、同一〇年清顕から高倉城を攻撃されている(仙道記)。同一三年一一月佐竹氏・蘆名氏・岩城氏らの軍勢が安積郡に攻め込んだため、伊達政宗は高倉城に伊東重信らを籠城させ、自らは本宮もとみや(現本宮町)観音堂かんのんどう(山田の丘)に陣を置いた。同月一七日、佐竹氏らの軍勢の一隊が前田沢まえたざわから高倉城の西に押寄せ本宮に北進しようとしたため、城内の重信らは城主畠山近江らの反対を押切り討って出て敵を横から突崩したが、入れ替った岩城勢によって城内に追戻された(貞山公治家記録)


高倉村
たかくらむら

[現在地名]岡垣町高倉・公園通こうえんどおり一―三丁目

上畑じようばた村の北、汐入しおいり川の上流域に位置し、谷地と丘陵地からなる。高蔵村とも書いた。北は吉木よしき村・三吉みよし村など、東は野間のま村、西は地蔵じぞう峠越で宗像郡山田やまだ(現宗像市)に通じた。遠賀郡の惣社とされた高倉神社があり、本村のほかに裏田うらた(浦田)大山口おおやまぐち百合野ゆりの金久曾かなくそ(金屑)・金山・原の集落がある(文政一一年「書上」安部文書)。自然に恵まれた山間の村で、「続風土記」は「春は花、夏は緑、秋冬は紅葉多くして、いとおもしろき所也。薪材木山蔬魚塩ともしからず。かやうの佳境は、又他郷にもまれなり」と記している。天文二二年(一五五三)八月日の宗像御代寺社武家知行帳(占部文書/宗像市史 史料編二)に宗像氏の支配下にある諸寺庵のうちとして「三町一反 高倉村高蔵宮分」「一町二反 千光寺」「六反 惣持院」「二町七反内丸見郷五反三十石也 龍生寺」などがみえる。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]入間市高倉一―五丁目・高倉・鍵山かぎやま一―三丁目・豊岡とよおか二丁目・同五丁目・牛沢町うしざわちよう扇台おうぎだい一丁目・同四―五丁目・森坂もりさか

かすみ川西岸にあり、東は同川を挟んで黒須くろす村、西は小谷田こやた村。集落はもと小谷田村境付近にあったとされ、坂東ばんどう山付近からは鎌倉―室町期の板碑が数多く発見されている。永正七年(一五一〇)以前のものと推定される、三月晦日の三田氏宗宛上杉顕定書状写(武州文書)にみえる「高倉」は当地をさすか。天文二年(一五三三)一二月吉日、信吉が高倉の氷川社に奉納した懸仏の銘(武蔵史料銘記集)に「武州入東郡金子郷高倉村」とみえる。永禄年間(一五五八―七〇)と推定される六月三日付北条氏康判物(山口県金子家文書)では、金子大蔵少輔・同新五郎の知行地のうち本領分として高倉村八貫文がみえる。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]郡山市中田町高倉なかたまちたかくら

赤沼あかぬま村の東に位置し、阿武隈高地の西側峡谷の山間を縫って西流する大滝根おおたきね川南岸部のわずかな平坦地に集落がある。地内に坂上田村麻呂の蝦夷征討にかかわるやまの地名が残る。字畑中はたけなかまち般若壇はんにやだん小堤こつつみなどに石造供養塔婆五基がある。すべて鎌倉末から南北朝期のものとみられ、うち小堤の浮彫阿弥陀三尊来迎石造塔婆には観応(一三五〇―五二)の紀年銘がある。町の塔婆は市神いちがみの碑とよばれ信仰されてきた。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「二町 一貫八百文 高倉」とみえ、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)には「二町 一貫七百七十 高倉」とある。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]守門村高倉

破間あぶるま川支流の西にし川の上流の村。南は西名にしみよう村・東名ひがしのみよう村、東は五輪ごりん峠越で横根よこね(現入広瀬村)へ通じる。集落は五輪峠北に五輪、西川の上流から大平おおだいら二分にぶ大宿おおしゆく貫木つなぎ荒谷あらや・高倉と続く。破間川対岸の渋川しぶかわ村で会津道から分岐した道は、当村を北上していし(標高五一〇メートル)で栃尾に通じる。この道は戦国期には栃尾城と下倉したぐら(現堀之内町)を結ぶ重要路線と考えられる。正保国絵図に村名がみえ、高三八石余。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]鶴ヶ島市高倉・三ッ木みつぎ

下新田しもしんでん村の南にある。日光脇往還が東部をほぼ南北に通り、川越越生かわごえおごせ道が東西に通る。天正二年(一五七四)九月吉日の紀年のある脚折の白鬚すねおりのしらひげ神社所蔵の棟札銘に「高倉」とみえる。近世には高麗こま郡川越領に属した(風土記稿)。田園簿では田一〇石余・畑五七三石余、ほかに野銭永四〇〇文、川越藩領。この数値にはのちの上新田・中新田・下新田の各村分が含まれる。慶安元年(一六四八)の検地帳(小川家文書)によると田八町二反余・畑三七町九反余、屋敷一町二反余。同年頃から上新田など三ヵ村が分村したらしい。寛文五年(一六六五)の年貢割付状(同文書)では高二八二石余。


高倉村
たかのくらむら

[現在地名]原町市高倉

阿武隈高地の東縁、東流する水無みずなし川の上流域に位置し、明暦二年(一六五六)下流の石神いしがみ村を分村したとされる。鷹倉とも記す。文永九年(一二七二)一〇月二九日の関東下知状(相馬文書)に「可令早平 丸領知陸奥国行方郡高平并鷹倉狩倉事」とみえ、相馬胤村の遺領である鷹倉などが某に安堵されている。南北朝期と推定される相馬一族闕所地注進状案(同文書)によると、高平たかひら村などが胤村の四男有胤に配分されており、某とは有胤のことと考えられる。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]水府村上高倉かみたかくら下高倉しもたかくら

山田川の最上流域にあって、南は天下野けがの村。中世には天下野村(古くは下高倉村)を含めて高倉郷とよばれ、太閤検地の際に分離して上高倉村と称し、元禄一二年(一六九九)高倉村と改称した。佐竹知行目録(彰考館蔵)に載る文和四年(一三五五)二月一一日付佐竹義篤譲状に「久慈東郡内高倉郷」とあり、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(秋田県立図書館蔵)に「上高倉」とある。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]いわき市高倉町

江畑えばた川流域の山中にあり、東は江畑村、西は下山田しもやまだ村、南は仁井田にいだ村・後田うしろだ村。郷帳類には高蔵村と記される。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、寛保二年(一七四二)以降棚倉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高四六石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高一三石余。正保郷帳では田方三六石余・畑方七石で、うち三〇石は高蔵こうぞう寺領。元禄郷帳では高四三石余、観音堂領がある。慶応二年(一八六六)の窪田郷村々委細書(いわき市史)によれば、高二三石余、家数一〇・人数五二。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]下総町高倉

西大須賀にしおおすか村の南東に位置し、南は埴生はぶ幡谷はたや(現成田市)。正保四年(一六四七)の検地帳(高倉区有文書)に「香取郡介崎領高倉村」とみえる。寛文四年(一六六四)の松平乗久領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、佐倉藩領であった。同七年の年貢割付状(高倉区有文書)では高一九八石余・免六ツ五分。享保八年(一七二三)山城淀藩領となり、幕末に至る。享保八年の淀藩領郷村帳では夫役永五七五文余・栗代永一八文・山銭鐚八九四文・草銭鐚四六九文。明和九年(一七七二)の村明細帳(高倉区有文書)によれば、反別二九町五反余、検地は文禄三年(一五九四)に行われた。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]庄内町高倉

筒野つつの村の東に位置し、南東は豊前国田川郡金国かなくに村・猪膝いのひざ(現田川市)。金国村との境に金国山がある。現稲築いなつき山野の若やまののにやく八幡神社に伝来した永禄七年(一五六四)二月二八日の棟札銘(嘉穂地方史)に「高倉村」が宇佐宮領として記載されている。小早川時代の指出前之帳では高倉村の田七町九反余(分米七一石余)・畠一町五反余(分大豆七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高七九石余、うち大豆一七石余(慶長石高帳)


高倉村
たかくらむら

[現在地名]東金市高倉

みや村の東に位置する。天正一八年(一五九〇)知行宛行状(書上古文書)によると、高蔵村の高七五石が小笠原氏に与えられている。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高一三五石。元和二年(一六一六)高五九石余が旗本加藤領となる(知行宛行状)。同五年から高九一石余が北町奉行組与力給知となり、幕末まで同じ(「地頭所取扱村々記」小倉家文書)。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では小関組に属した。元禄郷帳では高一一八石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一二一石余、家数二四。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]能生町高倉

下倉したくらより千本せんぼん坂の急坂をのぼりつめた高台にあり、地名は地形からきたと考えられるが、天和二年(一六八二)の除地書上書控では、高倉院の第三皇子が村を開いたのが始まりだともいう(能生谷村誌)。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高一八七石一斗余とある。天和三年の検地帳(うち五冊は池亀久兵衛氏蔵)は六冊に分れ、一冊は空熊そらくま新田分(佐藤忠治郎氏蔵)である。これによれば、田方一六町七反六畝余・畑方四九町七反五畝余、田畑屋敷色高合三三七石五斗余、屋敷持百姓五四名のうち三〇名が名子である。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]篠山市高倉

大山中おおやまなか村の北部に位置し、北に夏栗なつぐり山・黒頭くろつ峰があり、大山谷おおやまたに川が流れる。承応三年(一六五四)頃に大山中村から分立したという。天台宗の高蔵こうぞう寺の門前で寺号を村名としていたが、出願により安政五年(一八五八)に高倉村と改称したという。明和六年(一七六九)の古高新高村分帳(杉本家文書)では高蔵寺村として古高七一石余・新高三七石余。「丹波志」に大山庄大山中のうち「高蔵寺」とみえ、高三七石余。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]千代田村高倉

恋瀬こいせ川左岸の低地にあり、東は粟田あわだ村。弘安大田文に北郡として「高倉十二丁」とあり、元亨四年(一三二四)二月二〇日造立の阿弥陀仏石像(現在は廃寺となった真言宗阿弥陀院境内にある。県指定文化財)の背石に「常陸国北郡高倉郷住僧隋智」とある。天正末期に佐竹氏の支配下に入り、慶長七年(一六〇二)以後は江戸時代を通じて志筑本堂氏領。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]綾部市高倉町

幾見きみ郷の東北端、じよう山の南に開けた集落で、東は丘陵を隔て八田やた岡安おかやす淵垣ふちがきに通ずる。幾見郷六箇の一。

元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳に村名・高が記されるが、天保郷帳にはみえず、幾見村に含まれる。元禄一三年の知行所村高付帳によれば旗本の十倉谷氏領。

村内の高倉神社は以仁王伝説で有名である。治承四年(一一八〇)宇治川の合戦で敗れた以仁王がこの村で没し、その霊を祀った神社で、一二人の家臣(十二士)はそれぞれ郡内に土着したという。


高倉村
たかくらむら

[現在地名]市原市高倉

志藤高田しとうたかだ村の南に位置し、村田むらた川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一六五石。元和三年(一六一七)の知行宛行状に志東庄内高倉村とあり、当村など五ヵ所二〇〇石が旗本加藤領。寛永二年(一六二五)の知行宛行状では村内八二石余が旗本戸田領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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