三ノ町
さんのちよう
二ノ町の東、南は搦手橋で搦手町、北は崩橋で新河岸に接する。もとは外河崎といい、また搦手・代官町後とも称した。元禄三年(一六九〇)小柳津番蔵前の町を三ノ町と名付けた。寛文年間(一六六一―七三)「水戸の分別五郎左衛門」といわれた望月五郎左衛門が居住した。
「水府地名考」によれば、当町の西側から「明和年中の比にや穿ちて一碑を得たり康永二年十一月三日敬白の文字鮮かに存せりといふ又今に竹林の中に五輪の首の如き石あり此所古への寺跡なりと見へたり」とあり、また「水府地理温故録」は「今此石碑は此君堂東里先生立原伯時先生の号の庭前に存す後コノ石を六反田村六蔵寺に納めらる」と記す。
三ノ町
さんのちよう
[現在地名]村上市三之町
町屋敷裏の堀と二ノ丸堀の間に造られた侍屋敷。正保(一六四四―四八)の城下絵図(国立公文書館蔵)には道路の全長が二九七間と記される。寛文七年(一六六七)から宝永元年(一七〇四)の榊原氏在城時には現在の市役所付近に一族の二千四〇〇石の榊原帯刀の屋敷があり、その東向いを三千三〇〇石の村上主殿や一千五〇〇石の竹田重左衛門の大きな屋敷が占めていた。道路の両側には上級武士の屋敷が一八軒並ぶ。また二ノ丸の一部であった北隅の吉田門の内側には全長四〇間の蔵屋敷がある。南端には飯野門と羽黒門を設け、コの字形に堀と土塁で連結されて、土居の内側は三千石の家老原田権左衛門が三千七〇〇坪の屋敷を構えていた(明和八年書写「家中絵図」本悟寺蔵)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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