近世柔術の一流派。犬上郡兵衛永保(いぬがみぐんべえながやす)(1701―71)を中興の祖とする。永保は江州(ごうしゅう)犬上郡彦根(ひこね)(滋賀県彦根市)の人で、初名伊藤善八(ぜんぱち)。家伝の体術を伯父棚橋五兵衛(たなはしごへえ)に学び、のち京都に出て、起倒(きとう)流滝野遊軒(たきのゆうけん)の門に入って印可を得、犬上家の再起を志して犬上郡太左衛門(ぐんたざえもん)と改名。1735年(享保20)師に同行して江戸に下り、起倒流の普及に努めたが、やがて流儀のことで師と義絶し、49年(寛延2)上州館林(たてばやし)(群馬県館林市)秋元(あきもと)侯らの後援によって麻布狸穴(あざぶまみあな)に道場を開き、扱心流を唱えた。1753年(宝暦3)久留米(くるめ)の有馬(ありま)家に月俸25口(こう)をもって召し抱えられ、養子の2代永昌(ながまさ)、門下の石野八十左衛門(いしのやそざえもん)・同郡蔵(ぐんぞう)らの強勇が出て流名をあげ、幕末には柳川(やながわ)、福岡などの九州諸藩にも広く行われた。なお家伝の体術とは、室町末期、先祖の犬上左近将監長勝(さこんしょうげんながかつ)が北面の武士速水長門守円心(はやみながとのかみえんしん)から組打ちの術(円心流)を学んで一流を編み出し、子の扱心斎永友(きゅうしんさいながとも)に至って大成したものと伝えるが、つまびらかではない。
[渡邉一郎]
敵を欺くために、自分の身や味方を苦しめてまで行うはかりごと。また、苦しまぎれに考え出した手立て。苦肉の謀はかりごと。「苦肉の策を講じる」...