三入荘(読み)みりのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「三入荘」の意味・わかりやすい解説

三入荘 (みりのしょう)

安芸国の荘園(現,広島市安佐北区可部地区一帯)。〈みいりのしょう〉ともいう。史料上の初見は1158年(保元3)であり,石清水八幡宮寺領として〈三入保〉が記されている。その後81年(養和1)には新熊野(いまくまの)社領の〈三入荘〉として出てくる。同荘は《和名抄》の弥理(みり)郷の系譜をひく荘園と思われる。武蔵国熊谷郷を本貫とする熊谷直国は,承久の乱(1221)において京都に攻め上る途中,瀬田(滋賀県)で戦死したが,その恩賞により子の直時が三入荘地頭に補任された。これ以前に同荘に地頭がいたことは明らかであるが,人名は不明である。熊谷氏は根谷(ねのたに)川の東の小高い丘に伊勢ヶ坪城(塩ヶ坪城ともいう)を築き,のち本拠を高松城へ移すまでここに拠った。1235年(嘉禎1),熊谷直時とその弟祐直(資直)は所領の配分をめぐり争うこととなり,鎌倉幕府は直時に同荘の3分の2,祐直に3分の1の割合で分けるように裁許した。この段階の所領として田55町,畠20町,栗林6町ばかりのほかに公文・惣追捕使・散使などの給田計4町や〈狩蔵山〉などが記されている。さらに八幡宮,大歳神,崇道天皇(熊谷氏屋敷神),新宮今宮,山田別所,若王子宮などの神社も記されている。その後も両者の紛争が絶えなかったために,幕府は,64年(文永1)直時に所領を三分させ,祐直にその一つを選びとらせることにした。境界を定め両者の領域を確定したのであり,以後直時の支配領域を本荘,祐直のそれを新荘と称している。99年(正安1)に本荘方下村が下地中分され,新熊野社は田8町を領するのみとなった。さらに1331年(元弘1)には公文以下の荘官の給田も熊谷氏の知行するところとなった。熊谷氏はまた佐東川(太田川)河口倉敷を設けた。三入荘倉敷は,鎌倉時代には地頭門畠として位置づけられていたことから,荘園寄進の主体となった在地領主の所領のうえに倉敷が設置されたようである。熊谷氏はこの水運をみずから利用するとともに,河手(かわて)や鵜船の権益をめぐって安芸守護武田氏と争っている。荘内には熊谷氏ゆかりの蓮華寺,薬師堂,曼荼羅寺,観音寺などがあった。なお現在ある三入神社は,所伝では熊谷直時が甲斐国より勧請し,1570年(元亀1)熊谷高直が再造したとされている。社殿は三入本荘と新荘の境界線に建つといわれるが,元亀年間の再造時に移転したことも考えられる。
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百科事典マイペディア 「三入荘」の意味・わかりやすい解説

三入荘【みりのしょう】

安芸国安芸郡の荘園。〈みいりのしょう〉ともいう。現広島市安佐北区の根谷(ねのたに)川流域にあった。京都新熊野(いまくまの)神社領。12世紀半ば頃にはこの地に山城石清水(いわしみず)八幡宮領三入保(ほ)があったが,三入荘成立との関係は不詳。1221年武蔵(むさし)の熊谷直時が地頭として入部,この頃の田地55町余・畠地19町余。その後弟祐直(資直)との間で所領配分をめぐって争い,1264年直時領2,祐直領1の割合で荘を分割することになり,前者を本荘,後者を新荘とよぶようになった。なおこの頃すでに本荘には市場集落が形成されていた。また佐東川(現太田川)河口には年貢の保管や輸送地としての倉敷が設けられた。本荘では1299年下地中分(したじちゅうぶん)が実施されたが,新熊野社の所領は田8町のみで,それ以外は地頭進止となり,新熊野社領は形骸化していった。

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