三角ノ瀬戸
みすみのせと
大矢野島北端の岩谷浦と宇土郡の三角浦が相対する水道。有明海へ通じる北口(幅五五〇メートル)の中間に宇土郡の中神島(周囲六五四メートル)があり、この水域を中神ノ瀬戸という。中神島の東に小瀬戸、西に大瀬戸が航路を開き、大船は暗礁の多い小瀬戸を避けて大瀬戸を航路とする。南口は三つの狭水道に分れ、維和島と宇土郡の戸馳島に挟まれた蔵々ノ瀬戸を経て八代海への航路となっている。慶安四年(一六五一)の肥後国大道小道等調帳(県立図書館蔵)に「岩屋船渡拾五町」とある。「古城考」によれば、天正八年(一五八〇)薩摩の島津義久が肥前の龍造寺隆信を攻めた時、天草諸豪は島津氏の部将甑相馬允とともに軍船一〇〇艘をもって当瀬戸を渡り、玉名郡大島(現荒尾市)沖で龍造寺勢の軍船数十隻と戦ったが敗退した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 