三財村(読み)さんざいむら

日本歴史地名大系 「三財村」の解説

三財村
さんざいむら

[現在地名]西都市上三財かみさんざい下三財しもさんざい

鹿野田かのだ村の西に位置し、西部の上三財と東部の下三財に分れる。三才とも書いた。上三財の中央部を南東に流れてきた三財川は、流路を東に変えて下三財の南辺を画し、のち北流に転じる。同川を渡って都於郡とのこおり町に至る道や上三財と下三財を結んで東西に走る道が通じ、集落はこれらの道沿いなどに散在する。文永六年(一二六九)二月日の某譲状(西福寺文書)で「平群本庄内河原田」一町が福寿に譲られているが、ここにみえる河原田は下三財地内川原田かわらだのことか。貞和二年(一三四六)二月一三日、藤原(相良)良阿は伝領していた「かわらた」などを子息頼明に譲り(「藤原良阿譲状」同文書)、頼明はこれを同五年七月二〇日に子息ひこしゅ丸に譲渡している(「藤原頼明譲状」同文書)。天正五年(一五七七)一二月、島津氏に敗れた伊東義祐は大友氏を頼って豊後へ向かった。このとき義祐に同行した人々のうちに三才衆の湯前主水正・同藤五郎らがいた(日向記)。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦で伊東氏は徳川方にたち、宮崎城を家臣の稲津掃部が掌握諸県もろかた郡、佐土原さどわら(現佐土原町)など対立する西軍方の島津領周辺で合戦となった。同年一一月九日伊東氏は肥後国球磨くま米良めら雄八重おはえ(尾八重)奈須なす(椎葉山)などへの通路を検分に使四人を差向けたが、三才の郷人が蜂起し、六野坂むつのさか口で使の村野五藤らが討たれている(日向記)

近世領主の変遷は妻万つま村に同じ。初めは三財村として一村であったが、寛延四年(一七五一)以前に上・下の二村に分立した(清野家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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