上安村
かみやすむら
[現在地名]安佐南区安古市町上安
相田村の北に位置し、村境を安川が東流する。西は高取村、東は緑井村。村の北側には荒谷山(六三一・三メートル)・野登呂山(四五三メートル)・権現山(三九七・一メートル)などが並び、そこに発する四本の小河川が安川に流入し、萩原・行友・鯛ノ迫・鍋山(南部山)などの集落を形成する。萩原の谷を上り、萩原峠を越えると後山・毛木の両村(ともに現安佐北区)に至る。弥生後期の鶏頭原貝塚、隣接して古墳後期の鶏頭原古墳がある。
上安の地名は天文一〇年(一五四一)八月八日付の大内義隆安堵状(「芸備郡中士筋者書出」所収)にみえ、感神院別当に上安下安両村のうち一〇貫文の地の知行を認め、寺務と国家安全祈祷を命じている。また下安は同年六月二五日の大内氏奉行人連署奉書(厳島野坂文書)にみえ、「安」という地が上下に分離したと思われるが、その時期やそれ以前の「安」については不明。ただし「和名抄」の佐伯郡「養我郷」を「養須郷」の誤りとし(大日本地名辞書)、上安(上安・高取・相田・大町)・下安(北下安・南下安)をあてる説もある。
上安村
うやすむら
[現在地名]舞鶴市字上安・上安東町・字清道・清美が丘
五老岳の南を西流する米田川下流に位置し、集落は五老岳を背に南面する。山腹斜面に耕地が多く、溜池をつくって用水源とした。山麓の小字吉井がもと村の中心であったが、しだいに集落は平坦地の上安に移ったと伝える。
古代は大内郷(和名抄)、中世は大内庄として推移。慶長検地郷村帳に高六四五・九五石「上安村」とあり、次いで「上安村之内清道」の付記がある。枝村清道については、もと清谷といい、天正年間(一五七三―九二)の田辺城下建設に伴い、田辺郷笶原(のち城下の紺屋町の地と伝える)の農民が移り住み改称したと伝承する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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