上杉重能(読み)うえすぎしげよし

精選版 日本国語大辞典 「上杉重能」の意味・読み・例文・類語

うえすぎ‐しげよし【上杉重能】

  1. 南北朝時代武将。伊豆守護詫間(たくま)上杉氏の祖。勧修寺別当宮津入道道免の子。上杉憲房[ 一 ]養子足利尊氏に従い諸方に転戦。のち足利直義と結んで高師直(こうのもろなお)を除こうとしたが、かえって越前に配流され、殺された。貞和五=正平四年(一三四九)没。

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改訂新版 世界大百科事典 「上杉重能」の意味・わかりやすい解説

上杉重能 (うえすぎしげよし)
生没年:?-1349(正平4・貞和5)

南北朝時代の武将。勧修寺別当宮津入道道兎の子,上杉憲房の養子。1333年(元弘3)足利尊氏に従い六波羅攻撃。建武政権下で武蔵国守護代。幕府成立後,足利直義の吏僚として引付一番頭人,伊豆国守護となる。のち尊氏執事高師直と対立するようになり,師直排斥の中心人物となる。49年師直に攻撃され,尊氏により越前に流されて同地で殺害された。上杉能憲(よしのり)はその養子である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉重能」の意味・わかりやすい解説

上杉重能
うえすぎしげよし
(?―1349)

南北朝時代の武将。母の縁で叔父上杉憲房(のりふさ)の養子となり、詫間(たくま)上杉氏をたて、足利尊氏(あしかがたかうじ)の重臣となった。1333年(元弘3・正慶2)養父憲房とともに尊氏に決起を促して六波羅(ろくはら)攻めを行い、北条氏を滅亡させた。それ以来たび重なる戦功をあげ、伊豆守(かみ)(のちに守護兼帯)、武蔵(むさし)守護代、引付方一番頭人となり、さらに執事として尊氏の側近にあって一時権勢を振るった。49年(正平4・貞和5)同じ執事の高師直(こうのもろなお)と対立して権力の座を追われ、越前(えちぜん)に配流され、江守荘(しょう)において、師直の命令により守護代八木光勝(やぎみつかつ)によって殺された。法名報恩寺秀峯道宏。

[峰岸純夫]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉重能」の解説

上杉重能 うえすぎ-しげよし

?-1350* 鎌倉-南北朝時代の武将。
伯父上杉憲房の養子。宅間上杉家の祖。正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年足利尊氏にしたがい,六波羅攻めにくわわる。室町幕府成立後は足利直義(ただよし)に属し引付一番頭人,伊豆(いず)守護となる。尊氏の執事高師直(こうの-もろなお)と対立。越前(えちぜん)(福井県)に流され,貞和(じょうわ)2=正平(しょうへい)4年12月20日ごろ殺害された。

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朝日日本歴史人物事典 「上杉重能」の解説

上杉重能

没年:貞和5/正平4.12.20(1350.1.28)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。伊豆守。勧修寺別当宮津入道道【G7EDF/どうと】と,上杉憲房の妹加賀局の間に生まれ,憲房の養子となる。足利尊氏・直義兄弟に従って転戦し,室町幕府引付一番頭人,伊豆守護となる。直義の近臣として活動し,対立する高師直を除こうとする企ての中心にいた。そのため貞和5/正平4年に師直のクーデタが成功すると越前に流され,師直の命で殺された。

(山田邦明)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉重能」の意味・わかりやすい解説

上杉重能
うえすぎしげよし

[生]?
[没]正平4=貞和5(1349).12.21. 越前
南北朝時代の武将。勧修寺宮津入道道宏の子で,上杉憲房の養子。室町幕府引付頭人。伊豆守,伊豆守護。足利直義の執事であったが,直義と高師直が対立したとき,師直のため越前に配流させられ,殺された。

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