上杉能憲(読み)うえすぎよしのり

日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉能憲」の意味・わかりやすい解説

上杉能憲
うえすぎよしのり
(1333―1378)

南北朝時代の武将山内(やまのうち)上杉憲顕(のりあき)の子。重能(しげよし)の養子となり詫間(たくま)上杉氏を継ぐ。1349年(正平4・貞和5)、養父重能が足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事高師直(こうのもろなお)に殺されると、憲顕を頼った。尊氏、直義(ただよし)兄弟が争った観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では直義党に属し、両者和解の時期に高師直を摂津武庫川(むこがわ)に殺し(1351)、養父の仇(あだ)を報じた。そのため尊氏によって流罪に処せられたが、やがて許され、68年(正平23・応安1)父憲顕にかわって、上杉朝房(ともふさ)とともに関東管領(かんれい)となり、上野(こうずけ)、武蔵(むさし)、伊豆守護にも任ぜられた。鎌倉に報恩寺を建立し、没後そこに葬られた。法名報恩寺敬堂道
[峰岸純夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「上杉能憲」の意味・わかりやすい解説

上杉能憲 (うえすぎよしのり)
生没年:1333-78(元弘3-天授4・永和4)

南北朝時代の武将。上杉憲顕の子,上杉重能の養子。養父重能が高師直に殺害されると,1350年(正平5・観応1)常陸で挙兵し,高師冬を甲斐に攻め殺し,観応の擾乱(じようらん)中一時的に尊氏・直義の和議が成立した直後,高師直を兵庫に殺害して養父の仇を討つ。そのため流罪に処せられたが,後に許され68年(正平23・応安1)関東管領となり,上野,武蔵,伊豆の守護となる。
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朝日日本歴史人物事典 「上杉能憲」の解説

上杉能憲

没年:永和4/天授4.4.17(1378.5.14)
生年:正慶2/元弘3(1333)
南北朝時代の武将。関東管領。兵部少輔。憲顕の子であるが,一族の上杉重能の養子となる。(足利)直義派の中心にいた養父重能が貞和5/正平4(1349)年,高師直のために殺されると,鎌倉の実父憲顕のもとで活動し,観応2/正平6年直義を助けるべく関東の軍勢を率いて上京し,養父の敵である師直ら高一族を摂津武庫川で暗殺した。しかし直義派が結局敗北すると,父憲顕と共に10年の間雌伏し,その後共に復権を果たした。応安1/正平23年に父が死去すると,従兄弟の上杉朝房と共に関東管領となり,その後10年にわたって鎌倉の政務を主導した。若いころは血気盛んな武将であったが,のちには堅実な政治家となり,義堂周信とも親交があった。晩年は宅間谷に住んでいたことが確認される。

(山田邦明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉能憲」の解説

上杉能憲 うえすぎ-よしのり

1333-1378 南北朝時代の武将。
正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年生まれ。貞和(じょうわ)5=正平(しょうへい)4年養父上杉重能が高師直(こうの-もろなお)に殺され,実父上杉憲顕をたよる。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直義(ただよし)に属し,摂津武庫川(兵庫県)で師直ら高一族を殺害。足利尊氏に流罪とされたが,のちゆるされて応安元=正平23年上杉朝房とともに関東管領に就任,武蔵(むさし)・上野(こうずけ)(群馬県)・伊豆(いず)の守護となった。永和4=天授4年4月17日死去。46歳。

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