現東山区
付近には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
現在の京都市東山区内,北は松原通から南は七条通に及ぶ賀茂川東岸の地名。葬地である鳥辺野に近く,珍皇寺,西光寺などの寺院が建てられていた。空也が開いた西光寺は,その没後六波羅蜜寺と改称された。平安後期の1110年(天永1)平正盛は六波羅蜜寺内に阿弥陀堂を建立したが,このころから六波羅の地名が多く行われるようになった。正盛の子忠盛,その子清盛によって平氏の屋敷が営まれ,とくに清盛のときには大いに拡張されて20余町を占め,一族郎党の館は数千に及んだといい,その政権の本拠として栄えた。平氏滅亡後,90年(建久1)源頼朝はこの地に邸を建て,1202年(建仁2)には鎌倉幕府の援助で北に建仁寺が創められ,21年(承久3)承久の乱後は六波羅探題が置かれるなど,京都における鎌倉幕府の拠点となった。1333年(元弘3)足利尊氏らが六波羅探題を攻略するに及び,寺院を残して邸館は焼失,田園となったが,江戸中期以後は市街地化した。
執筆者:上横手 雅敬
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京都市東山区松原町付近。鴨川(かもがわ)の東岸、五条と七条の間の地で、現在は空也上人(くうやしょうにん)開山の六波羅蜜寺(みつじ)がある。平安時代以来の歴史上の要地。平正盛(まさもり)がここに邸宅六波羅殿(亭)を創設し、孫の清盛(きよもり)が、初め方一町ほどであったものを20余町までに造作して、平家一門が居住した。このため、平氏政権のことを六波羅政権とよぶ。鎌倉時代になると源頼朝(よりとも)がここに京都の邸宅をつくった。承久(じょうきゅう)の乱(1221)後は南北の六波羅探題(たんだい)を設置して、京都政界の監視、西国の訴訟事務などの政務を執行する幕府の一大分身機関とした。また、鎌倉幕府滅亡後は足利尊氏(あしかがたかうじ)が陣を構え、旧探題の職員をはじめ多くの御家人(ごけにん)を吸収した地ともなった。なお、洛東(らくとう)中学校内に六波羅探題府址の石碑がある。
[黒田弘子]
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六原とも。京都の鴨川の東側の地名。現在の京都市東山区にあたる。平安時代以来の葬送地である鳥辺野(とりべの)の入口にあたる。963年(応和3)空也(くうや)がこの地に六波羅蜜寺(はじめ西光寺)を建立し,信仰の場として栄えたが,平安末期には平氏が本拠地を構えた。鎌倉時代には源頼朝の宿所や,鎌倉幕府の出張所である六波羅探題府(たんだいふ)がおかれ,武士が多く居住する場所となった。
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…鎌倉幕府の職名。洛中守護,京都警固,六波羅とも称した。以前,源義経,大内惟義など,源頼朝の代官的存在として京都の警衛を担当した者はあったが,その段階ではまだ官職とはいえず,1185年(文治1)11月に入京した北条時政が初例。…
…鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関,およびその長。鎌倉末期,1319‐22年(元応1‐元亨2)ころ成立した《沙汰未練書》に〈探題とは,関東は両所,京都には六波羅殿を云ふ〉とあるのが六波羅探題の呼称の初見であり,通常は単に〈六波羅〉ということが多かった。…
※「六波羅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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