南北朝時代の武将。室町幕府の初代執事。一時期上総,武蔵守護。師重の子。法名道常。官途は三河権守,1335年(建武2)武蔵権守,38年(延元3・暦応1)から武蔵守。元弘の乱で主足利尊氏とともに挙兵。建武政府下では雑訴決断所,窪所(くぼどころ)に属して足利尊氏の代官的役割を果たした。南北朝時代に入ると将軍の執事,また直轄軍団長としての師直の活動はめざましく,38年に北畠顕家,48年(正平3・貞和4)には楠木正行を敗死させて南朝側に痛手を与えた。開創期の室町幕府は尊氏と弟直義との二頭政治の形態を呈したが,尊氏の子義詮の成長に伴い,畿内・西国の地侍武士層を基盤とする尊氏・師直派と伝統的な有力御家人・奉行人層に支持された直義派との階層的な対立が顕著となった(観応の擾乱(じようらん))。この幕府の内訌は南朝側を利し動乱を長びかせる要因となったが,師直はつねに尊氏側に立ち義詮擁立に献身した。49年内訌はピークに達した。この年師直は直義を襲って政務を辞退させ出家に追いこんだ。しかし翌年挙兵した直義軍に屈し,51年師泰とともに出家させられたが,尊氏に率いられて京都へ帰る途中摂津武庫川辺にて上杉能憲に襲われ,師泰・師兼ら高一族ともども討たれた。師直の発給文書は1333-50年の約20年間に総数約200通が確認されている。師直は尊氏の政治的立場に伴い,35年末には将軍家の執事としての実質を備えたとみてよい。将軍の意志・命令は執事を通じてなされたため,師直の発給文書の中には,所領の宛行いや寄進などを内容とする尊氏の命令をうけて下へ伝達する奉書が断然多い。また将軍への伝達事項は執事を経由した。師直は恩賞方頭人を兼帯して諸国武士の恩賞申請を受理し行賞の審査にも関与したし,一時期引付頭人ないし内談頭人として所領関係の裁判にも携わった。《太平記》は師直を伝統的な権威を軽視する新しい型の武士の典型として描くが,師直の政治的役割は幕府政治の安定化に寄与した点にあるといえる。
執筆者:森 茂暁
師直の人となりについては《太平記》がよく伝えており,ことに彼が塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)の美貌の妻に横恋慕し,吉田兼好に代筆させた艶書(恋文)を届けたが思いのままにならず,高貞が陰謀を企てていると将軍足利尊氏に讒言(ざんげん),これがきっかけで高貞が窮地に陥り,ついには師直のために討たれてしまうという話(巻二十一)は名高い。この師直が,赤穂浪士の仇討事件を題材とした江戸時代中期の浄瑠璃に吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)の代りに敵役として登場した。代表的作品の《仮名手本忠臣蔵》(1748初演)によると,吉良上野介(作中では師直)と浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)(作中では高貞)との確執・抗争の因は吉良の横恋慕にあったとする。《太平記》の挿話をうまく転用したわけである。憎まれ役の吉良を師直としたのは《太平記》が伝える師直の人となりが傲慢不遜で陰険な印象を与えたことによるが,舞台での面貌もそれらしくいやみたっぷりに仕立てられている。式亭三馬の滑稽本《忠臣蔵偏癡気(へんちき)論》(1812)は浄瑠璃作品によって定型化した〈忠臣蔵〉の登場人物群をおもしろおかしくちゃかしたもので,悪役の師直は舞台のような顔ではなく,聡明な人物であり,一方の高貞はけちんぼうな性格であったなどと,人物評価をひっくりかえして笑わせる。
執筆者:横井 清
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南北朝時代の武将。師重(もろしげ)の子。足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事。1333年(元弘3・正慶2)尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した当時から尊氏の側近にあり、建武(けんむ)政権成立後は、窪所衆(くぼどころしゅう)(朝廷の要所の警固にあたったと考えられるが詳細は不明)、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)寄人(よりゅうど)となった。1335年(建武2)北条時行(ほうじょうときゆき)の乱(中先代の乱)に尊氏が鎌倉に下ってからも、つねに側近にあって執事として事を処した。武将としても1338年(延元3・暦応1)には北畠顕家(きたばたけあきいえ)を和泉(いずみ)石津(いしづ)(大阪府堺(さかい)市)で敗死させ、1348年(正平3・貞和4)には弟師泰(もろやす)とともに河内(かわち)四條畷(しじょうなわて)(大阪府四條畷市)に楠木正行(くすのきまさつら)を敗死させ(四條畷の戦い)、さらに吉野をついて南朝の皇居以下を焼き払い、後村上天皇(ごむらかみてんのう)を賀名生(あのう)(奈良県五條(ごじょう)市西吉野町)に追うなどの功績をあげた。
しかし『太平記(たいへいき)』に描かれているような師直・師泰兄弟の旧来の権威を無視し、秩序を逸脱した行為は、幕府の秩序の理念を北条泰時(ほうじょうやすとき)の治世にみようとする足利直義(あしかがただよし)やその一統との対立を深めた。1349年(貞和5・正平4)両派は武力衝突に発展しようとしたが、尊氏の調停で合意が成立し、尊氏は師直の執事職を罷免した。しかし師直は、河内・和泉の守護として南軍を抑えていた師泰を上京させ、その武力を背景に直義を抑圧、直義派を幕府から一掃した。師直は執事に復帰、反師直派の上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまなおむね)を越前(えちぜん)(福井県)に配流し、ついで師直の命により彼らを殺させた。やがて直義の養子で中国探題(たんだい)の足利直冬(あしかがただふゆ)が尊氏と対立しつつ北九州、山陰、山陽で勢力を増大させるに及び、尊氏は1350年師泰をその追討に派遣した。しかし状勢は好転せず、尊氏が自ら師直らを率いて追討に赴こうとした同年10月、直義は京都を出奔して挙兵、直義派の諸将も相次いで挙兵した。1351年(正平6・観応2)2月、尊氏は直義軍と摂津(せっつ)打出浜(うちではま)(兵庫県芦屋(あしや)市)で戦って敗れ、直義と和を講じた。師直・師泰兄弟はこの戦いで負傷、出家して降伏したが、2月26日、摂津武庫川(むこがわ)で上杉能憲(うえすぎよしのり)(憲顕(のりあき)の子、重能の養子)のため一族とともに討たれた。
[池永二郎]
『佐藤進一著『日本の歴史9 南北朝の動乱』(1965・中央公論社)』
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(佐藤和彦)
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?~1351.2.26
南北朝期の武将。師重の子。右衛門尉・三河守・武蔵守。足利氏根本被官の筆頭で,元弘の乱以来,足利尊氏の側近。建武政権では雑訴決断所奉行人。開幕後は将軍家執事となり,引付頭人や恩賞方頭人も勤めた。旧来の権威を無視し,畿内周辺の新興領主層の組織化に努め,荘園押領を是認。そのため鎌倉以来の有力御家人や寺社本所勢力の支持をうけた足利直義(ただよし)と対立。1349年(貞和5・正平4)閏6月執事を罷免されるが,8月,直義ののがれた尊氏邸を包囲し,尊氏に直義の執政停止と師直の復帰を承認させた。翌年(観応元・正平5)末,尊氏とともに九州の足利直冬討伐に向かうが,その途上直義が南朝に降って京都を占拠したため引き返し,播磨で直義軍に敗北。尊氏と直義の和睦後に出家。摂津国武庫川(むこがわ)で直義派の上杉能憲(よしのり)に討たれた。
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…南朝が室町幕府に完全に圧倒されながらも,長く命脈を保ったのは,悪党・海賊的な武力を多少ともその基盤となしえたからにほかならない。一方,室町幕府でも,高師直(こうのもろなお)がこうした武士を組織したのに対し,足利直義は寺社本所の申請に応じ,守護を通じて悪党鎮圧を強行,幕府の方針は動揺をつづけた。しかし動乱の中で,悪党的な武士自身,守護の被官となり,国人一揆を形成するなど,しだいに組織化される一方,商工業者,金融業者として都市に定着するものも多く,悪党的な風潮は徐々に時代の表面から退いていく。…
…近松門左衛門は《太平記》の世界の話ということでこの討入事件をとりあげ,《兼好法師物見車(ものみぐるま)》に続けて,1710年(宝永7)には《碁盤太平記》を上演した。吉良上野介義央を高師直に,浅野内匠頭長矩を塩冶(えんや)判官に,大石内蔵助(くらのすけ)を大星由良助(ゆらのすけ)として登場させている。また,討入りから47年目の1748年(寛延1)に義士たちを描いた代表的な人形浄瑠璃が書かれた。…
…南北朝時代に高師直らの足利方が,摂津に進攻した南朝方の北畠顕家に反撃を加えて和泉国大鳥郡石津に倒した戦い。1337年(延元2∥建武4)再度陸奥から西上した顕家は,38年(延元3∥暦応1)1月美濃の青野ヶ原に幕府軍と戦ってのち(青野ヶ原の戦),伊勢を経て大和に入り,京都から出撃した幕府執事高師直らと奈良般若坂に戦い,さらに3月山城の男山に拠った弟北畠顕信と呼応して河内,摂津に進出し,北朝および幕府に大きな脅威を与えた。…
…初期の室町幕府の政治体制は足利尊氏(たかうじ)と弟足利直義(ただよし)の二頭政治で,尊氏は封建制の根幹にかかわる恩賞授与,守護職任免などをみずから行い,直義にはしだいに所領安堵,所領に関する裁判,軍勢の動員などの権限をゆだねた。尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は直義の権限拡大に反発し,2人の対立は42年(興国3∥康永1)ごろから表面化したが,これは直義が相論裁定の立場上,公家・寺社の権益擁護に傾きがちであったのに対し,恩賞方の実権をにぎる師直は,国人(こくじん)層の所領獲得要求にこたえるため直義の政策に反対したとみることもできる。この幕府首脳部の対立は,複雑な利害のからみ合う幕府諸将や諸国国人層に両陣営への分裂をひきおこしたが,概していえば,畿内近国の新興外様守護や中小国人層の多くが師直を支持し,有力な足利一門守護,幕府吏僚層,東国・九州などの伝統的豪族は直義支持に傾いたといえよう。…
…《仮名手本忠臣蔵》では,高武蔵守師直として登場し,専横なふるまいのうえに好色でわいろ取りの敵役となっている。これは《太平記》に登場する高師直(こうのもろなお)のイメージによるところも大きい。また,生捕りにされ,〈覚悟はできている,さあ,首をとれ〉と言いながらも,油断をみすまして大星由良助(ゆらのすけ)(大石良雄)に斬りかかるという,ひきょう未練な人物としても描かれている。…
…尊氏は幕府開設当初から弟直義に評定,引付方,安堵方,禅律方および軍勢催促状,感状発給など多くの政務を委任し,主として守護以下の人事権や恩賞授与権のみを親裁した。しかし尊氏を補佐する幕府執事高師直は国人の所領要求を積極的に支持する一種の革新路線を代表し,権門寺社の荘園維持要求を支持する直義の保守路線と対立した。その結果1350年観応の擾乱がおこり,師直も直義も結局横死したが,敗北した旧直義党武将の多くは南朝方の戦列に加わり,内乱は一時激化の様相を呈した。…
…こうして大和では南北朝動乱が南北地域抗争として展開する。47年(正平2∥貞和3)足利尊氏の執事高師直(こうのもろなお)は河内の楠木正行(くすのきまさつら)を討ち,さらに葛城山を越えて大和に入り,飛鳥を経て吉野山を攻撃し皇居を焼掠した。後村上天皇は西吉野に逃れて賀名生(あのう)に行在所(あんざいしよ)を設け,なお奮起して河内に進んだため,吉野山皇居は廃絶し,大和の南朝勢力は山地にひっそくした。…
※「高師直」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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