上沢村(読み)かみざわむら

日本歴史地名大系 「上沢村」の解説

上沢村
かみざわむら

[現在地名]函南町上沢

来光らいこう川流域にあり、南は大土肥おおどい村、西は大場だいば(現三島市)。永禄一〇年(一五六七)一一月二一日の北条氏康朱印状(宮本文書)にみえる「沢郷」は当地にあたると考えられ、氏康が長岡ながおか(現伊豆長岡町)皮屋七郎右衛門・孫九郎に燻皮の代金として二貫文を下すこととし、この年に限って同郷年貢米のうちから与えている。天正一八年(一五九〇)四月豊臣秀吉は「沢郷」をはじめ伊豆国各地に対して地下人・百姓らの還住を命じた(「豊臣秀吉掟書」松崎文書)。なお応永三年(一三九六)七月二三日幕府は関東管領上杉禅助(朝宗)に対して、上杉安房守憲定に「仁科庄阿良里牛藤沢村」等を交付するように命じている(「管領斯波義将奉書」上杉家文書)


上沢村
うわさわむら

[現在地名]塩谷町上沢

飯岡いいおか村の南、鬼怒川左岸に位置する。古くは上麻うわあさ村と記した。上沢氏系譜によると、寛元年間(一二四三―四七)阿蘇城主藤原澄敷の次男澄内が宇都宮氏より当地に封ぜられ、「台の館」を築き上沢氏を名乗ったという。今宮祭祀録(西導寺蔵)に上麻村とあり、今宮いまみや神社(現氏家町)祭礼頭役を天文九年(一五四〇)より天正六年(一五七八)にかけて、同村の上麻入道らが勤めている。

慶安郷帳では高二四四石余、田方一一四石余・畑方一三〇石余。元禄郷帳の高二七二石余。寛延三年(一七五〇)の村明細帳(斎藤清純文書)によると高二五〇石余、うち永荒引四六石余、他に新田二九石余、川運上として一両二分余、御役薪六八四束・同茅一二四束・同炭一一俵、柿渋を御用次第に納め、日光法要などの際には日光街道今市宿へ伝馬人足を出した。


沢村
かみあしざわむら

[現在地名]敷島町上芦沢

下芦沢村の北、あら川の支流亀沢かめざわ川流域にある。慶長七年(一六〇二)の上芦沢村検地帳(県立図書館蔵)によると反別は田五反余・畑一七町九反余、屋敷七六一坪・屋敷数一六。慶長古高帳では高六一石余。貞享元年(一六八四)検地(県立図書館蔵)では高四九石余、反別は田四反余・畑一二町余・屋敷三反余。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳によると高六一石余、うち杣屋敷高役引六一石余。


上沢村
かみさわむら

[現在地名]和良村さわ

村域は南北に細長く、その中央を鬼谷おんだに川が西流する。上流宮地みやじ村、下流は下沢村。南方御手洗みたらい滝がある。正保郷帳に沢村とあり、郡上藩に属し、田方三〇一石余・畑方五二石余。元禄郷帳では上沢村とあり、高二二四石余。元禄六年(一六九三)井上正任の三男正長が分知され、旗本井上領となる。正徳二年(一七一二)旗本井上氏の転封により幕府領となり、以後幕末まで続く。


沢村
かみあしざわむら

[現在地名]朝日町水本みずもと

送橋おくりはし川上流にあり、北の下流は下芦沢村、南は摂待せつたい村。正保郷帳では上足沢村は接待村と合せて記され、田方一〇石余・畑方二三石余。慶安二年(一六四九)以降松山藩領。宝暦八年(一七五八)の左沢御領知村高組訳書抜帳(松山町教育委員会蔵)では摂待村と合せて高三五石余、家数二三・人数一一〇。これより先、天正一五年(一五八七)柴田吉康が中郷本田なかごうほんでん堰を開発した際、その水源は当地内の送橋川であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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