日本大百科全書(ニッポニカ) 「上泉信綱」の意味・わかりやすい解説
上泉信綱
かみいずみのぶつな
(1508―77?)
室町末期の剣術家。近世剣術の一主流である新陰(しんかげ)流の流祖。初め伊勢守秀綱(いせのかみひでつな)、のち武蔵守(むさしのかみ)信綱を称した。上州(群馬県)勢多(せた)郡大胡(おおご)の城主大胡氏の一族で、父秀継(ひでつぐ)は同郡上泉城に拠(よ)り、関東管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)に属していた。信綱は幼少のころから刀槍(とうそう)の術を好み、松本備前守政信(びぜんのかみまさのぶ)(一説に塚原卜伝(ぼくでん))について鹿島新当(かしましんとう)流を、ついで愛洲移香(あいすいこう)の子小七郎宗通(こしちろうむねみち)について陰(かげ)流を、また小笠原宮内大輔氏隆(おがさわらくないたいふうじたか)に軍法軍配の術を学び、これらに創意工夫を加えて新陰流を編み出したといわれる。当時の上州の在地土豪は、上杉氏の威勢の衰えに伴い、北条氏、武田氏、長尾氏の諸勢力に翻弄(ほんろう)されていた。信綱もやむなく北条氏に服属、ついで長尾氏に加勢したが、武田晴信(はるのぶ)の西上州侵攻には、勇剛をうたわれた長野信濃守業政(しなののかみなりまさ)に同心し、よくこれに対抗した。しかし、1561年(永禄4)業政が病死し、信綱はまったく孤立してしまった。ここに至って信綱は兵法者として立つことを決意し、武田方からの随身の勧説を謝絶し、門人縁者を伴い、新陰流の弘布(こうふ)を志し、京都を目ざして廻国(かいこく)修業の旅に出た。63年の春、まず卜伝の一ノ太刀(たち)の伝授者である伊勢の国司北畠具教(きたばたけとものり)を頼り、その紹介で奈良興福寺の宝蔵院胤栄(いんえい)を訪ね、柳生但馬守宗厳(やぎゅうたじまのかみむねよし)、松田織部助信栄(のぶひで)らに教授して自信を深め、ついで京都に入り、翌年6月17日には本覚寺に仮寓(かぐう)中の将軍足利義輝(あしかがよしてる)に謁してその技を披露し、賞詞を賜った。ついで65年から翌年にかけて、柳生宗厳、宝蔵院胤栄、丸目蔵人佐長珍(くらんどのすけながよし)などに各種免状、印可を与えている。やがて69年には権大納言(ごんだいなごん)山科言継(やましなときつぐ)ら公家(くげ)たちと親交を結び、軍法軍配を教授したり、新陰流の演武を御覧に供したりしている。70年(元亀1)従(じゅ)四位下に叙せられた。『言継卿記(ときつぐきょうき)』によれば、翌年7月21日暇乞(いとまご)いに言継を訪問し、下野(しもつけ)国結城(ゆうき)氏宛(あて)の書状を所望して離京した。その後、信州千野(ちの)氏に教授したことまで判明しているが、その後の動静や没地・没年などはさだかではない。前橋市上泉の菩提(ぼだい)寺恵雲山西林寺の過去帳には天正(てんしょう)5年(1577)1月16日を忌日としているが、これも確証はない。
[渡邉一郎]
『下島一著『上毛剣客史』(1958・高城書店)』▽『前橋市史編纂委員会編『前橋市史 第1巻』(1971・前橋市)』