名は「むねとし」とも読む。戦国末期の兵法家、新陰(しんかげ)柳生流の祖。大和(やまと)国添上(そうのかみ)郡(奈良県)小柳生郷(こやぎゅうごう)の土豪、柳生美作守(みまさかのかみ)家巌の子。初め新介、新次郎、のち新左衛門(しんざえもん)。晩年は但馬入道(たじまにゅうどう)と称し、石舟斎宗巌(せきしゅうさいそうごん)と号した。幼少より武技に優れ、はじめ神道(しんとう)流を修めたが、1563年(永禄6)の秋、関東一の兵法者で新陰流をひっさげて西上した上泉伊勢守秀綱(かみいずみいせのかみひでつな)と奈良宝蔵院で面会し、たちまちこれに傾倒して、2年後には一国一人(いっこくいちにん)の印可と、新陰流絵目録4巻などを伝授された。しかしこの年、松永久秀(ひさひで)の軍に参加した宗巌は多武峯(とうのみね)の戦いで拳(こぶし)を射られて負傷し、さらに70年(元亀1)辰市(たついち)の戦いで長男の巌勝(としかつ)が再起不能の重傷を負い、77年(天正5)には久秀が信長に攻められ、信貴山(しぎさん)城で自刃して果てた。ここでひたすら兵法者への道を歩むことを決意し、柳生谷に隠退して新陰流の研究に精進し、無刀(むとう)の工夫(くふう)(技法)とそれに至る「心の道(みち)の付事(つけごと)」(心法)の確立を生涯の目標に掲げた。94年(文録3)徳川家康の招きにより、洛西(らくせい)鷹峯(たかがみね)の陣屋において五男宗矩(むねのり)とともにその妙技を披露し、家康の賞詞とともに入門の誓紙を受けた。晩年は行往座臥(ざが)すべて兵法三昧(ざんまい)の日々を送り、末期(まつご)に至るまでその完成に精進した。
[渡邉一郎]
(前田英樹)
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…諸国遍歴した秀綱は,京,大和に逗留(とうりゆう)し,将軍足利義輝に兵法学を講じたり,新陰流兵法を上覧に供したりして,70年(元亀1)に従四位下に叙せられた。また宝蔵院胤栄(いんえい),柳生宗厳(やぎゆうむねよし)(石舟斎)らも上泉の門下となり,宗厳には1565年(永禄8)新陰流の皆伝印可を与えた。そのほか疋田豊五郎(ひきたぶんごろう),丸目蔵人佐(まるめくらんどのすけ)など優秀な弟子が多く,上泉の道統は近世おおいに隆盛した。…
…大和国の近世大名。徳川将軍家剣術師範として知られる。平安時代,関白藤原頼通が春日神社に神供料所として寄進した神戸四ヵ郷の一つの小楊生郷(のち柳生村)に代官として菅原永珍(ながよし)が入部したのに始まるというが,戦国時代に春日神戸代官として美作守家厳(いえよし)があり,その子の新左衛門尉宗厳(石舟斎)が柳生新陰流を起こして自立した。松永久秀に属したため筒井順慶に追われて閉居したが,1594年(文禄3)徳川家康に召されて剣法を伝授したのに始まり,1600年(慶長5)関ヶ原の戦には嗣子の宗矩(むねのり)とともに功をたて,宗矩は秀忠,家光の剣術師範となり,さらに大目付に起用され1636年(寛永13)1万石(1万2500石)の大名に列し但馬守を称した。…
…江戸初期の兵法家。新陰流剣術の達人で徳川将軍兵法師範。正式には柳生但馬守宗矩,通称又右衛門。父は柳生石舟斎宗厳(むねよし)(1527‐1606)。大和国(奈良県)柳生庄に生まれる。父石舟斎は上泉伊勢守から新陰流の印可を伝授され,柳生に引きこもり柳生新陰流兵法のくふうと完成に精進した(柳生流)。徳川家康の招きを老齢のゆえをもって辞した石舟斎は,五男宗矩を幕下に勧めた。宗矩は江戸で徳川家の兵法師範となり,2代将軍秀忠,3代家光に印可を与えた。…
※「柳生宗厳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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