上田庄(読み)うえだのしよう

日本歴史地名大系 「上田庄」の解説

上田庄
うえだのしよう

魚野うおの川上・中流域の盆地である現南魚沼郡の大部分を包含していた庄園。庄内地名として石白いしじろ(現湯沢町)せき郷・早河はやかわ郷・木録きろく(現塩沢町)六日市むいかいち小栗山こぐりやま(現六日町)などがみえ、上州境の現湯沢ゆざわ町から現塩沢しおざわ町・六日町の全域を含み、現大和やまと浦佐うらさ付近で浦佐保に接していたと思われる。上田庄・上田は、近世・近代においても南魚沼地方を総括する呼称として用いられた。

「兵範記」保元二年(一一五七)三月二九日条によれば、前年の保元の乱の結果、故散位平正弘の所領「魚沼郡殖田村」が没官され、後白河天皇の後院領とされている。庄としての成立はこの後で、「吾妻鏡」文治二年(一一八六)三月一二日条に載せる関東知行国乃貢未済庄々注文に「院御領、預所備中前司信忠於田庄」とある。本家は後白河院、預所は大江信忠。鎌倉期の当庄の動向はほとんどわからない。「予章記」には元弘の乱(一三三一―三二)の際幕府方についた河野通定は当庄小栗山郷を与えられたとあり、おそらく地頭職であろう。康永三年(一三四四)一〇月二〇日の足利直義御教書(上杉家文書)によれば、上田庄内闕所未給分が関東管領兼当国守護上杉憲顕に守護領不足分として与えられている。


上田庄
うえだのしよう

荘域は、古代信濃国府が置かれたと推定される神科台地上一帯の地域とされ、上田の呼称はここから起こったとされる。

嘉暦四年(一三二九)鎌倉幕府が諏訪社上社造営所役を信濃諸郷に課した大宮御造栄之目録(諏訪大社上社文書)の中に「二之鳥居一之南方上田庄(中略)外垣五間上田庄」と記されるのが初見。その後文安六年(一四四九)諏訪社上社の祭事に奉仕した信濃諸豪族の頭役料を記した諏訪御符礼之古書(守矢文書)に「一、上田、五月会御符之礼三貫三百文、頭役三拾貫文、太田三善義虎、頭役二拾貫文、御教書礼如御符」と記され、文明五年(一四七三)の諏訪御符礼之古書には「流鏑馬海野小宮山上田郷頭本打替々々被勤仕候、小宮山遠江守持貞代始、御符礼三貫三百文」とあって、文明・長享年間にわたり、上田庄は幾度か頭役料を課せられているのをはじめ、天正年間(一五七三―九二)の上諏訪造宮帳(諏訪大社上社文書)にも、上田郷・上田庄として頭役料銭を課せられているが、それらの記録にみえる真田氏の家臣太田氏・小宮山氏らが、この地を管掌していたのである。


上田庄
うえだのしよう

朝来郡にあった安楽寿あんらくじゆ(現京都市伏見区)領庄園。比定地未詳。平安時代と推定される年月日未詳の庄々所済注文案(宮内庁書陵部蔵「藤門雑抄」所収安楽寿院古文書)に「上田庄田畠 上紙五十帖」と所見。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には、「上田庄 拾三町」とみえ、「安楽寿院領」「院御領」「給主修理大夫邦経卿」「下司三方三郎行高跡」の注記がある。給主は高階邦経で、弘安八年当時は非参議従二位、修理大夫、長門権守。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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