下岩崎村(読み)しもいわさきむら

日本歴史地名大系 「下岩崎村」の解説

下岩崎村
しもいわさきむら

[現在地名]勝沼町下岩崎

八代郡に属する。上岩崎村の西に位置し、北は川を境に山梨郡勝沼村・等々力とどろき村、西は北野呂きたのろ(現一宮町)。中央部を田草たくさ川が西流する。中世岩崎郷に含まれ、天正一七年(一五八九)一一月一七日の伊奈忠次知行書立写(記録御用所本古文書)に下岩崎郷とみえる。慶長古高帳には村名と村高の記載を欠くが、権現領二石余が記される。寛永元年(一六二四)の四郡村高帳にも記載がない。江戸時代初期は周辺諸村と同様に幕府領であったと推定される。宛行年は不明であるが、貞享二年采地簿(臆乗鈔)では旗本朝倉領が設定されている。元禄郷帳では幕府領、ほかに正宗しようじゆう寺領・権現領がある。宝永二年(一七〇五)甲府藩領となり、以後の領主変遷は上岩崎村に同じ。


下岩崎村
しもいわざきむら

[現在地名]喜多方市岩月町いわつきまち大都おおつ

村の東を田付たづき川が南流し、北東は上岩崎村、西はなか村、南はいな村、北は宮前みやのまえ村。昔は宮前村・上岩崎村と一村で岩崎村といっていたが、天正一八年(一五九〇)に分村したという(「新編会津風土記」など)。小田付組に属し、北村きたむら中河原なかがわら(中川原)中内なかのうちの端村がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に下岩崎とみえ、高七二九石余。寛文五年(一六六五)の「小田付組土地帳」によると高六九二石余、免五ツ二分四厘六毛、反別は田方四七町六反余・畑方九町八反余、本村は家数一〇(竈数一一)、男三四・女二四、馬三、北村は家数八(竈数九)、男二〇・女二二、馬一、中川原は家数八(竈数九)、男一九・女一九、馬四、中内は家数九(竈数九)、男二七・女二四、馬五。


下岩崎村
しもいわさきむら

[現在地名]茎崎村下岩崎

牛久うしく沼の北西に突出た台地上にあり、西は上岩崎かみいわさき村。応永三年(一三九六)に小田氏の一族岡野氏が泊崎はつさき城を築いたと伝える。天正年間(一五七三―九二)には岩崎・只越両氏の居城となったが、同一四年に多賀谷氏に攻撃され、「新編常陸国誌」に「野口豊前覚書」として「岩崎城主只越尾張守ヲ攻ム、自殺シテ其将卒ヲ宥サント請フ、之ヲ許ス、板橋岩崎已ニ平グ」とあるように落城した。

元禄郷帳の村高は四九八石余。寛政七年(一七九五)には天領と旗本三氏の相給地で(「差上申一札之事」宮本家文書)幕末は前橋藩領一六二石余、旗本渡辺氏領一七六石余、村上友之助領八二石余、村上内記領八二石余(各村旧高簿)


下岩崎村
しもいわさきむら

[現在地名]五所川原市下岩崎

大釈迦だいしやか丘陵西麓に位置し、西は桜田さくらた村、南は飯詰いいづめ村、北は中柏木なかかしわぎ(現北津軽郡金木町)に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に下岩崎村六八・八五石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳、同四年の検地帳にはなく、元禄一四年(一七〇一)の郷村帳にみえる。貞享四年に岩村を岩崎村と改め、享保一二年(一七二七)下岩崎村となったという(五所川原市史年表)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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