幕末の勘定奉行で,能吏として知られた。通称は左衛門尉,号は敬斎。豊後の人。父は豊後国日田の代官所の属吏だったが,聖謨は小普請組川路光房の養子となって川路家を継ぎ,勘定所の筆算吟味に合格して勘定方勤務となる。役人の階段を一つずつ上るうち1835年(天保6)の仙石騒動断罪で手腕を発揮し,勘定吟味役に抜擢された。次いで佐渡奉行,小普請奉行,奈良奉行,大坂町奉行などを経て,52年(嘉永5)勘定奉行に昇進する。ペリー来航以前にたたきあげでここまで上ったのは珍しい例だった。53年プチャーチンが長崎に来ると露使応接掛を命じられて西下,続いて翌年には下田で日露和親条約を結んだ。老中阿部正弘,堀田正睦につらなる開明派幕吏の一人とみなされて安政の大獄で左遷,退隠を余儀なくされ,文久年間に短期間外国奉行を務めたがすぐ辞職隠居,中風で半身不随となった。戊辰3月,江戸開城のうわさを聞いてピストルで自殺する。文筆をよくし,露使と応接した《長崎日記》《下田日記》をはじめ,多くの遺著があり,《川路聖謨文書》8巻に収める。
執筆者:松浦 玲
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江戸末期の政治家。幕府の徒士(かち)内藤吉兵衛(きちべえ)の子として豊後(ぶんご)国(大分県)日田に生まれ、小普請(こぶしん)組川路三左衛門光房(さんざえもんみつふさ)の養子となる。通称弥吉(やきち)、のち三左衛門。18歳のとき出仕し、下級武士の出身で初めて支配勘定出役(しはいかんじょうでやく)となったが、能力を認められて累進、小普請奉行(ぶぎょう)、奈良奉行、大坂町奉行を歴任し、1852年(嘉永5)勘定奉行となり海防掛を兼ねた。53年ロシア使節プチャーチンの来航に際しては外交交渉のため長崎に赴き、さらに翌54年ふたたび伊豆下田において折衝し日露和親条約を結んだ。ロシア側では、この間の川路の手腕を高く評価している。その後、条約勅許・将軍継嗣(けいし)問題で一橋(ひとつばし)派と目され、大老井伊直弼(なおすけ)にその地位を追われた。63年(文久3)外国奉行となったが、老齢のため数か月で辞職。68年江戸開城締約の翌日(3月15日)ピストル自殺を遂げた。彼の実弟松吉は、幕臣井上新右衛門(しんえもん)の養子となり、のち外国奉行井上信濃守清直(しなののかみきよなお)としてハリスの応接にあたり、兄弟ともに幕末外交史上に活躍した。
[加藤榮一]
『川路寛堂著『川路聖謨之生涯』(1893・吉川弘文館/復刻・1970・世界文庫)』
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1801.4.25~68.3.15
幕末期の幕臣。旧姓は内藤。川路家の養子。通称は左衛門尉。佐渡奉行・小普請奉行・普請奉行・奈良奉行・大坂町奉行をへて,1852年(嘉永5)勘定奉行,公事方・海防掛となる。おもにロシアとの外交交渉にあたったほか,禁裏造営・軍制改革に尽力。58年(安政5)堀田正睦(まさよし)の上京に随行したが,帰府すると井伊直弼に左遷され,59年隠居差控となる。63年(文久3)一時外国奉行となるが5カ月で辞任。幕府滅亡時にピストル自殺。佐渡奉行在勤日記「島根のすさみ」や「下田日記」「長崎日記」を残す。
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