日本歴史地名大系 「与田保」の解説
与田保
よたほ
近世の
与田の地名は養和二年(一一八二)四月二八日野寺僧弁慶申状案(東大寺文書)に「与田公文湛与」とみえるのが早いが、立保の時期は不詳。ただし寛元二年(一二四四)訴訟のために提出された証拠書類の中に「一通 当保田畠里券文久寿元年八月日」(同年四月日「僧源尊重申文案」内閣文庫所蔵周防国古文書)とみえるから、あるいは久寿元年(一一五四)に立保されたのかもしれない。
保内の耕地は「定田五十五町七反小・畠九町一反」(建長元年七月二〇日「関東下知状案」狩野亨吉氏蒐集文書)といわれている。また弘安八年(一二八五)と正和五年(一三一六)の検注取帳(多和文庫所蔵文書、東大寺文書)が残るが、いずれも断簡で耕地の様子を一部分うかがえるにすぎない。
立保以後保司を通じて国衙の支配下に置かれていたと思われるが、現地を日常的に支配していたのは公文であった。公文職は現地の有力者が世襲している。早くは養和二年、保内にある
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報