中之庄村(読み)なかのしようむら

日本歴史地名大系 「中之庄村」の解説

中之庄村
なかのしようむら

[現在地名]伊予三島市中之庄町

嶺北れいほくの中央部に位置し、法皇ほうおう山脈の山嶺から海岸にかけての村。東は中曾根なかぞね村・三島みしま村、南は法皇山脈の嶺を境に平野山ひらのやま村・小川山おがわやま村、西は具定ぐじよう村に接し、北はひうち灘に面する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇摩うま郡の項に「中ノ庄村 日損所、松林有」と村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)の領分附伊予国村浦記にも「中ノ庄村」とあるが、天保郷帳には「中之庄村」とある。村名の由来は荘園の中之庄からともいわれる。

和名抄」にみえる宇摩郡山口郷に属したとされる。宇摩庄の所在は明らかではないが、中ノ庄の地名から荘園の所在を推定できる。江戸時代には幕府領等を経て、宝永元年(一七〇四)西条藩領となり幕末に至る。

中之庄村
なかのしようむら

[現在地名]稲沢市中之庄町

村の東の東源寺とうげんじ川を境に増田ました村に接する。東を八神やがみ街道、南境を津島つしま街道が通り、街道の北に本郷があり、妙見みようけん中屋敷なかやしき北屋敷きたやしき御田島みたじま万願寺まんがんじの五区に分れていた(天保村絵図、徇行記)。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」(群書類従)に三貫三九〇文納入者として、「等持寺領尾張国中庄段銭」とみえる。天正一一年(一五八三)織田信雄上洛のとき尾張国内の手置として書置いた判物(生駒家文書)に「中の庄」とみえる。天正末に織田信雄が幅三間の道路築造を命じた判物(酒井家文書)に「中庄なかのしよう」とみえ、家臣長良与四郎の知行地であった(織田信雄分限帳)

中之庄村
なかのしようむら

[現在地名]近江八幡市中之庄町

北津田きたつだ村の西にあり、南は津田入江が湾入。大部分山地で、集落は奥島おくのしま山の南麓に位置する。西方長命ちようめい寺へ通じる道(長命寺道)が村内を通る。江戸時代の領主の変遷は王之浜おうのはま村に同じ。地名は中世津田中つだなか庄に由来すると伝える。寛永石高帳によれば高一三〇石余、ほかに津田の入江の干拓により生れた新田高一〇石余がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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