中小路村(読み)なかしようじむら

日本歴史地名大系 「中小路村」の解説

中小路村
なかしようじむら

[現在地名]高槻市城南じようなん町一丁目・春日かすが町・若松わかまつ町・松川まつかわ町・辻子ずし一―三丁目・大冠おおかんむり町一―三丁目・東和とうわ町・深沢ふかざわ町一―二丁目・深沢本ふかざわほん町・須賀すが町・西冠にしかんむり三丁目・のぼり町・つつみ町・北大樋きたおおひ

野中のなか村の南西にあり、檜尾ひお川の淀川流入口に位置する。南方大塚おおつか町に至る枚方ひらかた街道が走る。村領は野中・辻子両村と錯綜している。中世は冠庄近世には初め冠村に含まれた(→冠村。元禄元年(一六八八)の高槻御領分指出し写(中村家文書)には「冠」を冠して村名がみえる。分村以降も冠の称は継続しており、享和三年(一八〇三)免状(大西家文書)には「冠村忠右衛門分」とある。


中小路村
なこうじむら

[現在地名]八日市市中小路町なかこうじちよう

妙法寺みようほうじ村の南東にあり、北東部の愛知えち川岸から南西部蒲生がもう下大森しもおおもり村境までの細長い村域をもつ。天文二四年(一五五五)の永安寺領田畠納下行帳(永源寺文書)にみえる御園分のうち「中郷中路分」は当地をさすか。戦国期のものと推定される馬足子交名(今堀日吉神社文書)に「なかうちの二郎三郎」がみえる。寛永石高帳に村名がみえ、高四〇三石余、彦根藩領。集落は河岸近くの東出ひがしで・西出の二字からなる。元禄八年大洞弁天寄進帳では家数三二・人数一六六(男八一・女八四、寺社方男一)。明治一五年(一八八二)の村集会懲誡規則(中小路町共有文書)は、村人三六名連名で集会遅刻料・不席料をはじめ私語などに対する罰金などを取決めている。


中小路村
なかしようじむら

[現在地名]中央町中小路

北から東は大沢水おおそうず村・馬場ばば村・出目でめ村、南は馬場村、中間なかま(現豊野村)、西は糸石いといし(現豊野村)と接する。北部を浜戸はまど川が流れ、大部分西方水晶すいしよう山から続く山々で占められ、川の流域から山麓にかけて平坦地がある。慶長一三年(一六〇八)八月二六日、十時平介に宛てた加藤清正黒印状(小野文書)に「益城郡於中小路内三百五石弐斗七升七合」とあり、元和七年(一六二一)蒲池兵庫宛の加藤忠広判物写(大塚文書)にも同内容のことがみえる。


中小路村
なこうじむら

[現在地名]泉南市中小路なかこうじ

樫井かしい川下流の平野部に位置する。北は岡田おかだ村。慶長一〇年(一六〇五)の和泉国絵図に「なこうぢ」とみえ、高四四九石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると五三五石余。領主は安永六年(一七七七)常陸笠間藩主で大坂城代牧野貞長領となるまで北野きたの村に同じ。その後天明元年(一七八一)遠江相良藩田沼意次領となったが(田沼家系譜)、同七年幕府領となり、文化一三年(一八一六)から岸和田藩預地となった(岸和田藩志稿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android