中山マサ
なかやまマサ
[生]1891.1.19. 長崎,長崎
[没]1976.10.11. 大阪
日本の政治家。日本で初めての女性大臣。イギリス人の父と日本人の母との間に生まれる。1910年ミッション・スクールの活水女学校を卒業。1911年宣教師の先生に勧められ,アメリカ合衆国オハイオ州のウェスリアン大学に留学。英文学を専攻し 1916年学士号を取得,卒業後は日本に帰国し教職についた。1923年政治家を目指していた弁護士の中山福蔵と結婚し大阪に住む。戦後,日本で女性参政権が認められると,1947年の第23回衆議院議員総選挙に大阪2区から立候補し,初当選。以降当選 8回。国会議員としてシベリア抑留者の引き揚げ問題(→シベリア抑留)や,社会福祉の充実などに取り組み,衆議院海外同胞引揚に関する特別委員会委員長,自由民主党婦人局長などを務めた。1953年第5次吉田内閣の厚生政務次官。1960年第1次池田内閣で厚生大臣として入閣し,日本初の女性大臣となった。5ヵ月の在任期間中,特に母子家庭への児童扶養手当支給の法制化に力を注いだ。1969年政治家を引退。夫の福蔵も政治家で,長男の太郎は海部内閣の外務大臣,四男の正暉は竹下内閣の郵政大臣などを務めており,孫の泰秀も国会議員になった。
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中山 マサ
ナカヤマ マサ
- 肩書
- 厚相,衆院議員(自民党)
- 生年月日
- 明治24年1月11日
- 出生地
- 長崎県長崎市
- 学歴
- 長崎活水高女卒 オハイオ・ウエスリアン大学(米国)〔大正5年〕卒
- 経歴
- 渡米してオハイオ・ウエスリアン大学を卒業、名誉法学博士号を受け帰国、長崎市の活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校教師を勤めた。昭和22年大阪2区から衆院選に当選、44年の引退まで8回当選。この間、衆院海外同胞引揚特別委員長、自由党婦人部長、自民党婦人局長、代議士会副会長を経て、28年第5次吉田内閣の厚生政務次官。35年7月第1次池田内閣の厚相に就任、初の女性大臣として脚光を浴びた。在任わずか5ケ月だったが、母子家庭への児童扶養手当支給を実現した。44年引退。
- 没年月日
- 昭和51年10月11日
- 家族
- 夫=中山 福蔵(参院議員) 長男=中山 太郎(衆院議員) 五男=中山 正暉(衆院議員)
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
中山 マサ
ナカヤマ マサ
昭和期の政治家 厚相;衆院議員(自民党)。
- 生年
- 明治24(1891)年1月11日
- 没年
- 昭和51(1976)年10月11日
- 出生地
- 長崎県長崎市
- 学歴〔年〕
- 長崎活水高女卒,オハイオ・ウエスリアン大学(米国)〔大正5年〕卒
- 経歴
- 渡米してオハイオ・ウエスリアン大学を卒業、名誉法学博士号を受け帰国、長崎市の活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校教師を勤めた。昭和22年大阪2区から衆院選に当選、44年の引退まで8回当選。この間、衆院海外同胞引揚特別委員長、自由党婦人部長、自民党婦人局長、代議士会副会長を経て、28年第5次吉田内閣の厚生政務次官。35年7月第1次池田内閣の厚相に就任、初の女性大臣として脚光を浴びた。在任わずか5ケ月だったが、母子家庭への児童扶養手当支給を実現した。44年引退。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
中山マサ なかやま-マサ
1891-1976 昭和時代後期の政治家。
明治24年1月19日生まれ。中山太郎・正暉(まさあき)の母。教員生活ののち,昭和22年衆議院議員(当選8回,自民党)となる。厚生政務次官,党婦人局長などをへて,35年第1次池田内閣の厚相として入閣,わが国初の女性大臣となった。昭和51年10月11日死去。85歳。長崎県出身。アメリカのウェスリアン大卒。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
中山 マサ (なかやま まさ)
生年月日:1891年1月19日
昭和時代の政治家。衆議院議員
1976年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報